Rembrandt van Rijn
Saskia as Flora (detail)
1634
Oil on canvas
The Hermitage, St. Petersburg
先日も話題とした西洋美術史家池上英洋氏による「剥き出しのヨーロッパ史十選」『日本経済新聞』の9月24日付記事では、結婚に際しての持参金にかかわる作品が取り上げられている。
今回は、ルーカス・クラナハ(父)の『不釣合いなカップル』(1520年代、ウイーン美術史館蔵)という作品に象徴的に描かれているような夫と妻の年齢差が大変大きな場合、あるいは沢山の持参金を持った妻を娶った夫のイメージの背景が解説されている。 実はこれも面白いトピックスであり、かねてから多少注目していた。
美術史の解説書などを読んでいて時々出会うのは、才能には恵まれているが貧乏な画家が、持参金を沢山持った女性にめぐり合い、その助けで後顧の憂いなく?天賦の才を開花させるというような話である。しかし、実際にはなかなか解釈が難しいケースも多いことが分かった。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合、パン屋の息子であった画家ジョルジュと貴族の娘ネールとの結婚を、平民と貴族の結婚という「逆玉の輿」であったとする解説によく出会う。言い換えると、「女氏(うじ)無うて玉の輿に乗る」の逆のイメージである。確かにこの点だけに注目すると、ジョルジュの生家はパン屋であった。この結婚で、貴族階級の一端に連なることになる利得をジョルジュが考えなかったわけではないだろう。しかし、他の側面を見ると、この解釈にすぐには賛同できないところがある。
結婚式が挙げられた1617年7月、ジョルジュは24歳(1593年3月生まれ)の画家であり、新婦ディアンヌ・ル・ネール(1591年10月生まれ)は25歳と1歳半ほど年上でもあった。当時のロレーヌ女性の結婚年齢としてはかなり晩い方であった。といって、新婦の側になにか問題があったとする記述はなにもない。むしろ、二人の間には10人の子供が生まれ、夫妻が世を去ったのもほとんど同時であった。
確かに、当時の社会階級の観点からすれば、異なった階級間での結婚の例は少なかった。それだけに注目も集めただろう。そして、彼女が持参金(dowry)として、両親や親族などから継承し、新家庭に持ち込んだ財産は当時の社会の平均的イメージからすれば少なからざるものではあった。しかし、貴族としてはむしろ控えめなものであったとみられる。
結婚証明書に記された内容によると、持参金の内容は、(両親ではなく)彼女を大変可愛がっていたと思われる資産家の叔母からの贈り物として500フラン、2頭の乳牛と1頭の若い雌牛、若干の衣類と家具類だった。新婦の両親には合計12人の子供が生まれており、ネールだけ特別扱いをすることもなかっただろう。
他方、新郎ジョルジュの側もあまり持ち物がなかった。慣習に従って、父親が結婚式の費用と息子の衣類、基本的な家具と、相続手続きが完了するまで父親が負担するわずかな金ぐらいだった。そして、しばらく新郎側の両親と共に、あるいは近くに居住するという当時の慣行で、ヴィックに新家庭を持った。
結婚式の参列者などは明らかに両家の社会的関係を反映していたが、ジョルジュが新婦の持参金や貴族という階級に期待して結婚したような形跡はなにもない。それよりもはっきりしていたのは、この時期にジョルジュは、ロレーヌで将来が期待される才能ある画家として注目されており、画業で身を立てて行くだけの実績をすでに残していたということである。それは画家としての自信にもつながっていただろう。
もしかすると、ジョルジュが独身時代、画業修業をした工房かもしれないのだが、当時、ナンシーで活躍していた画家(油彩・銅板画)ジャック・ベランジュの場合は、別の意味で興味深い。この画家は1612年にナンシーの富裕な薬剤師ピエールの娘クロード・ベルジェロンと結婚している。画家は1575年頃の生まれと推定されているので、37歳近い。他方、新婦は17歳だった。彼女の持参金は6000フランを下らなかったと記録に残っている。さらに新婦の両親が亡くなった場合、新夫妻は両親の田舎の土地などを継承することになっていた。ネールの場合と比較すると、破格な持参金だが、商人の富裕さと貴族でも必ずしも富裕ではなかったことを示唆しているかもしれない。
ベランジュ新夫妻はまもなく3人の息子に恵まれたが、3人目の息子が生まれて1年もたたないうちに当のジャック・ベランジュが世を去ってしまった。気の毒に21歳で寡婦となってしまったクロードは、その後1625年にナンシーの宮廷の召使として勤めている間にシャルルIV世のお手つきになり、さらに5人の子供を生んだことになっている。豪商の娘であっただけに、史料も残っていたらしい。
このベランジュの結婚の背景も、想像してみると面白い。確かに、ベランジュの結婚相手はナンシーで知られた富裕な商人の娘であったが、ベランジュ自身すでにロレーヌでも著名な画家・銅板画家として名を成していた。しかし、夫妻の年齢差は20歳近く大変大きい。 不釣り合いなカップルのようだが、当時はさほど珍しくはなかったようだ。
このブログでも時々登場しているレンブラントの場合も、さらに興味深い。この画家の生涯は波乱万丈で、それ自体興味が尽きない。よく知られているようにレンブラントは、あの『トゥルプ博士の解剖学講義』の制作で大成功を収め、一躍脚光を浴びた。そして美しい女性サスキアに出会い、結婚にこぎつける。彼女の父(生前はレーワルデン市市長)はすでに世を去っていたが、末娘のサスキアも4万グルデンという当時としては莫大な遺産を相続していた。もちろん、法律上はこの金はサスキアに帰属していた。17世紀半ばのアムステルダムでは、500グルデンで普通の家庭は1年を裕福に暮らせるといわれていた。
レンブラント自身も画業は絶頂期を迎え、収入も多かった。ただ、この画家は制作のための資料収集もあったが、かなり浪費癖もあったようだ。晩年はそれが大きな暗転をもたらす。他方、サスキアは画家によって「花の女神フローラ」のモデルにもなっており、大変美しい人であったことがうかがわれる。そして、レンブラントも画家として心身ともに充実した時代であった。
しかし、「禍福はあざなえる縄のごとし」。1642年サスキアは、30歳の若さで病を得て世を去った。遺言書によって遺産4万グルデンはレンブラントと息子のティトゥスに残された。ティトゥスが成人するか結婚するまでは、レンブラントは自由に使うことはできたが、レンブラントが再婚すればこの条項は適用されないことになっていた。
その後の顛末は、この画家の後半生を大きく暗転させた。興味深く考えさせられることも数多く、記してみたいこともあるのだが、とても書き尽くせない。ただ、これら画家たちの事例をみるだけでも、人間の生涯の有為転変とそこに含まれるさまざまなドラマに驚くばかりである。