リュネヴィルへの道 Photo:Y.Kuwahara
今日9月18日、『日本経済新聞』朝刊の美術欄で、気鋭の西洋美術史家池上英洋氏が「剥き出しのヨーロッパ史十選」と題したシリーズの第一回に、ニコラ・プッサン 「アシドドのペスト」 (1631、ルーヴル美術館蔵)を取り上げ、解説されている。
プッサン(1594-1665)は、このブログにも再三登場させたが、ラ・トゥール(1593-1652)とまったく同時代の画家である。もしかするとローマにいたプッサンがフランス王室から招かれ、仕事をせかされ、予想外の人間関係の軋轢なども加わり、嫌々ながらルーヴル宮で仕事をした当時(1640-42年)、王室画家として二人が出会った可能性はかなり高い。少なくもお互いの仕事は十分承知していたことは間違いない。新聞紙上で紹介されている作品はプッサンの比較的初期のものだ。
プッサンが旧約聖書『サムエル記』の物語を主題に描いた悪疫ペストの蔓延は、14世紀以来繰り返しヨーロッパを襲った恐怖の疫病であった。黒死病(ブラック・デス)といわれ、戦争と並び恐れられた最たるものであった。1348年当時のフィレンツェでは、市民の二人にひとりがこの疫病で死んだとまで言われている。
プッサンやラ・トゥールの生きた17世紀前半にも、ペストはしばしばヨーロッパを襲った。とりわけ、1620-30年代にかけて、ロレーヌでは再三ペストが蔓延した。ラ・トゥールの徒弟で甥の一人でもあったフランソワ・ルドワイヤンがこの病で急死したことは、ラ・トゥールの研究史でもよく知られている。
記録が残っていないだけで、ラ・トゥールの身内でも犠牲になった者がいるかもしれない。たとえば、ペストではないが、1648年8月にはラ・トゥールの末娘マリーが12歳で天然痘で命を落としている。 疫病はその正体が見えないだけに、戦争よりも恐ろしかっただろう。そのため、さまざまな信仰、呪術、魔術に頼る人も多かった。ペストが流行すると、恐怖や不安に駆られ、さまざまな異常行動に走る人々がいた。(なにやら今日の世界に似たところもある。人間は本質的に変わりえないのだろうか。)
プッサンとラ・トゥールはこうした時代状況を共有していた。しかし、その生き方、制作環境などは大きく異なっていた。ある意味で対照的であったといって良いかもしれない。プッサンの作品は華麗で古典的であり、当時のヨーロッパを代表するイタリア絵画の主流を継承していた。まさにバロックの大きな流れに位置していた。
他方、ラ・トゥールはバロックの時代にありながら、それとはかなり遠いところに位置していた。この画家は、制作の思想においてゴシックの流れを忠実に体現していたといえる。当時の主流であったイタリア美術の風を明らかに感じながらも、ラ・トゥールはそれとは異なる独自の道を選んだ。
ラ・トゥールもプッサン同様に古典には通暁していた。この時代の芸術家にとって、古代ギリシャ、ローマの歴史、そして聖書は必須の教養であった。ラ・トゥールは画業に入る前から小学校でラテン語を習っていたようだ。この画家のいわば精神的後ろ盾でもあったロレーヌきっての教養人ランベルヴィリエールの影響もあって、多くの古典も読んでいたと考えられる。ラ・トゥールの作品主題の選択、断片的な文書などから、その一面をうかがい知ることができる。
ラ・トゥールは長らく忘れられた画家であったが、プッサンはノルマンディに生まれながら、その生涯の重要な時期をローマで過ごし、時代の寵児でもあった。プッサンの作品は総じて華麗な中にも人文主義的教養に支えられた深い思考に基づく精神性が感じられ素晴らしい。ただ、ラ・トゥールやル・ナン兄弟など「忘れられていた」画家の作品と比較すると、プッサンのある時期の作品は、とりわけ現代人にとっては重い、あるいは過剰な感じ、時には衒学的ともいえる印象を与える。しかし、時代はプッサンを求めていた。
現存するラ・トゥールの作品には、プッサンのここに例示された古典的主題に題材をとった悪疫流行の様相、あるいはより直接的にはカロのように、ロレーヌの経験した戦争や悪疫などの惨禍を推測させるものはない。制作したのかもしれないが、今日残っていない。しかし、時には悲惨きわまりない風土の中でも、しっかりと生きていた人々の姿を目の当たりにするような作品が、時を超えて現代人の共感を呼ぶのだろう。