時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ロッテルダムの灯:東京の灯

2008年09月25日 | 書棚の片隅から

 
  インターネット世界から離れた日を過ごしている間、束縛されていた思考の活動が解き放たれるのか、普段なら予想もしていないようなことが浮かび上がってきた。思考の世界はいつの間にか北方ヨーロッパへ移り、17世紀オランダの画家の軌跡を追っていた。アムステルダム、ハールレム、レイデン、ロッテルダム、ハーグ、デルフトなど、懐かしい地名が去来する。
  
  ロッテルダムという地名が、一人の作家の作品を思い出させた。庄野英二「ロッテルダムの灯」という短いエッセイである。

  この児童文学作家の作品は、いつとはなしに好んで読むもののひとつとなっていた。作家の経歴については、あまり関心を抱いていなかったが、その後ふとした折に、作品に添えられた著者自筆の年譜を見て、いくつか驚いたことがあった。時代は異なるが、なんとなく心の遍歴を共有するような部分を見いだしたためである。

  
庄野英二は1915年(大正4年)、山口県萩町に生まれ、戦時中は俘虜収容所員として、インドネシア、ビルマ(ミャンマー)、マレーシアなどを転々と移動し、戦後は大学教員をしながら創作活動を続けた。1993年没。芥川賞作家の庄野潤三氏は弟。

  「ロッテルダムの灯」(1959年)は、作家の小さな旅の一齣を描いた小品である。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が独立を果たした年、この作家はヨーロッパへの旅に出た。当時のBOAC機の機内で、朝鮮戦争で負傷し、入院していた東京のアメリカ陸軍病院からイギリスへ戻る兵士に出会う。この兵士は朝鮮における戦闘のことも、又どのようにして朝鮮へ行ったかも全然記憶を失っていて思い出せない。そして、わずかに「私が最後にたったひとつだけ覚えていることは、軍用船の甲板の上からロッテルダムの港の灯を眺めたことです」と答えている。

  作品には、「ロッテルダムの灯」が、実際にいかなる光景であるかも、まったく出てこない。それどころか、エッセイはこの帰還兵士の言葉の後、トルコの山々を機内から望むところで短く終わっている。

  ロッテルダムへは何度か旅したことがある。港近くのホテルへ泊まり、大きな貨物船やタンカーが出入りする光景を眺めた時もあった。EU最大の貿易港としてユーロ・ポートとも呼ばれたこの港は、昼夜を分かたず、繁忙をきわめていた。しかし、庄野の作品は、読んでいたにもかかわらず、ロッテルダムの港の灯という場面を特に意識したことはなかった。多分、目前の仕事に追われて、回想する余裕がなかったのだろう。

  しかし、今回は新たな回想の連鎖が生まれた。かつて、アメリカで学業生活を送っていた頃、寄宿舎の隣室に朝鮮戦争から帰還し、ヴェテラン(退役軍人)
に準備された奨学制度で、大学院へ来ていた学生 J がいた。このことは以前に少し記したことがある。生物学を専攻する学生だった。除隊後、帰国し、中西部の実家でしばらく休養の年月を過ごした後、大学へ入り直したという。

  30代も半ば近く、落ち着いていて、時々、日本の思い出などを話し合った。日本からの留学生は少なく、珍しかった時代でもあり、Jはアメリカ人学生よりも、私に親しみを感じたようだった。彼にとっては、生まれて初めて見た外国が戦場の朝鮮半島であり、後方兵站基地の日本だった。殺伐とした戦場からしばらく休暇をもらって東京などで過ごす時間は、天国のように思えたという。J は、
陽気なアメリカ人学生とは異なり、寡黙で、どことなく心に影を背負っているような印象を受けていた。時々、キャンパスの芝生に、ぽつねんと座っているのを見かけたことがあった。

  Jは、やはり大きな悩みを持っていた。多感な青年期に徴兵され、陸軍兵士として朝鮮に派遣された彼は、生まれて初めて銃を手にし、敵と対峙したという。その経験はトラウマとして残り、時々、夜中に自ら気づくことなく目覚め、夢と現実が区分できなくなり徘徊するという。ヴェトナム戦争はアメリカの敗色濃く、反戦運動が急速に高まっていた。

  Jの目に東京の灯はどんなに映ったのだろう。聞くこともなく、年月だけが過ぎた。
     

 

庄野英二『ロッテルダムの灯』講談社文庫、昭和49(1974)年(私家判、レグホン社、1960年

コメント
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