「ロレーヌ再訪の旅」はまだ続く。ここで一寸一休み(?)。表題に惹かれ、旅の途上で気楽にと思ったが、結果はいかに。
カスミナ・カドラ『カブールの燕たち』(香川由利子訳、早川書房、2007年)原著 Yasmina Khadra. Les Hirondelles de Kaboul (Éditions Julliard, 2002).
打ちのめされるような衝撃。こうした読後感を得る本は、最近少なくなった。その意味で、この作品は久しぶりに大きな衝撃を伴った感動を与えてくれた。たまたま広告を見ていて、近く読んでみたいと思っていた。
ギメ美術館で「アフガニスタン:発見された財宝」展を見たことも、この本に注目するひとつのきっかけとなった。タリバン圧政下の状況を描いた「カイト・ランナー」の読後感もどこかでつながっていた。 「カイト・ランナー」は、アメリカでは大きな評判になり映画化もされたが、日本ではあまり話題とならない。どうしてだろうかと思っていた。日本とアフガニスタンの距離は、アメリカとアフガニスタンよりも大きいようだ。「カブールの燕たち」は、こうしたことを考えながら近く読んでみようと思っていた時に、折よく日本語訳も出版され、手にすることになった。
タリバンが支配するアフガニスタン、カブールの物質的、精神的に荒廃した風土の中に日々を送る人々を、二組の夫婦の厳しい生活を通して鋭く描いている。タリバンの下では、かつて市民の大きな憩いと楽しみであった凧揚げも神への冒涜として禁止されている。人々は公開処刑を鬱積した日々の気持ちのはけ口としている。時代の歯車がはるか昔へと逆転した感もある。
一組の夫婦、夫のアティック・シャウカトは、公開処刑される女囚の拘置所の看守。その妻ムサラトは、今不治の病に冒されている。もう一組の夫婦の夫、モフセンはブルジョア出身の司法官、妻ズナイラ・ラマトは名家の出で同じく司法官で女性解放のために努力してきた。今は夫婦二人とも失職している。かつては、絵に描いたようなエリートだった。
カブールは、人間社会として崩壊寸前の段階として描かれている。すさまじい荒涼たる光景だが、わずかにそれを救っているのは、二組の夫婦の精神を支えている一筋のヒューマニズムと個人的な選択の有りようだろうか。イスラム社会の精神風土は、多くの日本人にとっては、西欧社会よりもはるかに遠い存在であり、ほとんど理解されていない。
カスミナ・カドラは、余計な粉飾を極限まで省いて現代のカブールを描いている。その試みは見事に成功を収めているといえよう。極限の中に生きる人々と、日々つのってゆく荒廃の姿が圧倒的な迫力をもって描かれている。第二次大戦の記憶は急速に風化しているが、かつてはわれわれも経験したものだ。
アフガニスタンは、ソ連との長い戦争と内戦を通して物心共に崩壊の道を歩んできた。その後、タリバンの圧政下で市民としての普通の生活までも奪われてしまった。今やわずかな楽しみと思われる散歩や音楽を聴くことすらできない。モフセンとズマイラの夫婦の人生が暗転するきっかけも、そこにあった。荒涼たる瓦礫と砂塵の世界は、市民の心象世界でもある。著者ヤスミナ・カドラもこうした光景の一人物といえるかもしれない。
著者はヤスミナという女性名で作品を発表していた。ところが、実は男性であり、アルジェリア軍の上級将校であった。その後、彼はフランスに亡命する。 ストーリーを記すことはあえて避ける。「燕たち」の意味も読んでみて始めて分かった。オルハン・パムクの「白い城」のカミュ的世界にもつながるものも感じる。
イスラム世界の実像、精神的風土、そしてその中に生きる夫婦愛という多くの日本人には想像の域を超えると思われる世界を、著者は理解しうる表現で描き出している。しかし、それは壮絶ともいうべき心象風景である。次第に極限状態に追い込まれて行く人々にとって、残された選択の道はなになのか。われわれが住む日本とは、対極ともいうべき世界に生きる人々にとって、なにを示唆するものだろうか。 終局に近づくにつれて結末が予想されてしまうという作品上の問題はあるものの、これだけの大きなテーマを凝縮した形で描ききった著者の力量は、敬服以外のなにものでもない。
カスミナ・カドラ『カブールの燕たち』(香川由利子訳、早川書房、2007年)原著 Yasmina Khadra. Les Hirondelles de Kaboul (Éditions Julliard, 2002).
打ちのめされるような衝撃。こうした読後感を得る本は、最近少なくなった。その意味で、この作品は久しぶりに大きな衝撃を伴った感動を与えてくれた。たまたま広告を見ていて、近く読んでみたいと思っていた。
ギメ美術館で「アフガニスタン:発見された財宝」展を見たことも、この本に注目するひとつのきっかけとなった。タリバン圧政下の状況を描いた「カイト・ランナー」の読後感もどこかでつながっていた。 「カイト・ランナー」は、アメリカでは大きな評判になり映画化もされたが、日本ではあまり話題とならない。どうしてだろうかと思っていた。日本とアフガニスタンの距離は、アメリカとアフガニスタンよりも大きいようだ。「カブールの燕たち」は、こうしたことを考えながら近く読んでみようと思っていた時に、折よく日本語訳も出版され、手にすることになった。
タリバンが支配するアフガニスタン、カブールの物質的、精神的に荒廃した風土の中に日々を送る人々を、二組の夫婦の厳しい生活を通して鋭く描いている。タリバンの下では、かつて市民の大きな憩いと楽しみであった凧揚げも神への冒涜として禁止されている。人々は公開処刑を鬱積した日々の気持ちのはけ口としている。時代の歯車がはるか昔へと逆転した感もある。
一組の夫婦、夫のアティック・シャウカトは、公開処刑される女囚の拘置所の看守。その妻ムサラトは、今不治の病に冒されている。もう一組の夫婦の夫、モフセンはブルジョア出身の司法官、妻ズナイラ・ラマトは名家の出で同じく司法官で女性解放のために努力してきた。今は夫婦二人とも失職している。かつては、絵に描いたようなエリートだった。
カブールは、人間社会として崩壊寸前の段階として描かれている。すさまじい荒涼たる光景だが、わずかにそれを救っているのは、二組の夫婦の精神を支えている一筋のヒューマニズムと個人的な選択の有りようだろうか。イスラム社会の精神風土は、多くの日本人にとっては、西欧社会よりもはるかに遠い存在であり、ほとんど理解されていない。
カスミナ・カドラは、余計な粉飾を極限まで省いて現代のカブールを描いている。その試みは見事に成功を収めているといえよう。極限の中に生きる人々と、日々つのってゆく荒廃の姿が圧倒的な迫力をもって描かれている。第二次大戦の記憶は急速に風化しているが、かつてはわれわれも経験したものだ。
アフガニスタンは、ソ連との長い戦争と内戦を通して物心共に崩壊の道を歩んできた。その後、タリバンの圧政下で市民としての普通の生活までも奪われてしまった。今やわずかな楽しみと思われる散歩や音楽を聴くことすらできない。モフセンとズマイラの夫婦の人生が暗転するきっかけも、そこにあった。荒涼たる瓦礫と砂塵の世界は、市民の心象世界でもある。著者ヤスミナ・カドラもこうした光景の一人物といえるかもしれない。
著者はヤスミナという女性名で作品を発表していた。ところが、実は男性であり、アルジェリア軍の上級将校であった。その後、彼はフランスに亡命する。 ストーリーを記すことはあえて避ける。「燕たち」の意味も読んでみて始めて分かった。オルハン・パムクの「白い城」のカミュ的世界にもつながるものも感じる。
イスラム世界の実像、精神的風土、そしてその中に生きる夫婦愛という多くの日本人には想像の域を超えると思われる世界を、著者は理解しうる表現で描き出している。しかし、それは壮絶ともいうべき心象風景である。次第に極限状態に追い込まれて行く人々にとって、残された選択の道はなになのか。われわれが住む日本とは、対極ともいうべき世界に生きる人々にとって、なにを示唆するものだろうか。 終局に近づくにつれて結末が予想されてしまうという作品上の問題はあるものの、これだけの大きなテーマを凝縮した形で描ききった著者の力量は、敬服以外のなにものでもない。