Photo Y.Kuwahara
ナンシーの奥深さと多様さを楽しんでいる時に、ひとつ面白いことに出会った。「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール」の名前を校名として使っている立派な中学・高等学校 Collège et Lycée George de La Tour がこの地に存在することを偶然に知った。週末のため学校自体はお休みであったが、大変立派な校舎だった。子供たちがサッカーの練習をしていた。
さらに興味深いことに、メッスにも同様にラ・トゥールの名前を校名に使用している中学校があるとのこと。画家の名前がついた街路は、この地方には他にもあるらしい。ラ・トゥールという画家が、今日ではロレーヌの人々の心に深く浸透していることを改めて認識する。
この学校に在学する生徒、教職員、父兄などの関係者は、郷土が生んだこの世界的な画家が校名である母校をきっと大きな誇りとしているに違いない。校舎の壁にもあのラ・トゥールの不思議な顔の人物像が大きく描かれている。ロレーヌの人々には、どこかで自分たちと血のつながっているなじみのある顔立ちなのだろう。
教育改革論議が盛んな日本だが、「教育委員会を改革せよ」、「校長の権限を強化せよ」、「週休2日を見直せ」、などの提案はあっても、生徒や教職員、父兄などが揃って学校に自信と誇りを持てるような提案は少ない。教育の本質にかかわる問題は傍らに置かれてしまって、相変わらずの効率重視、形だけの改革論議が多い。この風土からは、ロレーヌにあるような発想は逆立ちしても出てこない。「葛飾北斎中等学区」、「横山大観中等学校」、「宮沢賢治高等学校」を創るようなものだが、おそらく発想の素地がまったく異なっているのだろう。
謎の多いラ・トゥールについてはっきりしていることは、17世紀の美術史に燦然と輝くこの画家が、生涯のほとんどの年月をロレーヌで過ごしたということである。今日ではフランスの一部となっているが、当時はフランス王国からは政治的に独立した「ロレーヌ公国」であった。
同時代に活躍した多くの画家が、ローマやパリでの活動を通して自らの名声を高めたのと比較して、ラ・トゥールは生涯のほとんどを決して恵まれた環境とは言い切れないロレーヌで過ごした。ラ・トゥールがパリの王室画家として一時期を送ったことは確認されているが、若い修業時代には、イタリアあるいはオランダなどで過ごした可能性も否定できない。しかし、この希有な画家にとって、ロレーヌは特別の重みがあった。郷土がいかに戦火や疫病の舞台となろうとも、平穏さが戻るとリュネヴィルへ戻っていた。
画家が、ヴィックやリュネヴィルで活動を行っていた間でも、ロレーヌの文化的中心地ナンシーやメッスの存在は大きかった。とりわけ、ロレーヌ公の宮殿が置かれたナンシーは、リュネヴィルにも大変近く、文化的にもさまざまな影響力を発揮したと思われる。道路事情などは今日のように整備されたものとは程遠い状態であったが、優れた馬の乗り手であったといわれるラ・トゥールには、ナンシーは遠い場所ではなかった。
史料の上では十分確認はされていないのだが、もしかすると、彼はナンシーで自らの徒弟としての修業を行ったのかもしれない。リュネヴィルへ移る前にも、ナンシーで仕事をすることを考えた可能性もある。400年前、この画家はどこでなにをしていたのだろうか。歴史の闇の中に埋もれてしまったことだが、思いはさまざまなことに波及する。妄想に近いかもしれない。
いずれにせよ、目前の現実の前に、ひとりの画家が与える文化的影響、社会的受け取り方の重みを改めて感じる。長い間忘れ去られた画家が20世紀の初めに再発見された後、こうした形で社会的評価がなされていることに驚かされる。芸術が人々の日常の中にしっかりと生きていることを。