Johannes Vermeer, Saint Praxidis, 1655 (oil on canvas, 105.4 x 85.1cm) The Barbara Piasecka Hohnson Collection.
17世紀の宗教世界に少しばかり深入りしているのは、いくつか理由があってのことだ。実は書き出せばきりがないのだが、ひとつは、この時代の宗教間の対立と共存の実態に関心を抱いたことにある。17世紀は戦争の世紀でもあったが、ほとんどの戦争が宗教上の対立に関連していた。宗教という精神世界での対立は、この時代に生きる人々に今では想像できないほど多大な影響を与えた。美術家の制作活動も例外ではなかった。彼らは時代を支配する宗教とさまざまに折り合いをつけながら、制作をしていた。たまたまレンブラントやフェルメールについては、史料が多数残り研究も進んで、かなりの追体験や推測が可能になっているが、同時代の画家たちもそれぞれに生存をかけていた。ここで、フェルメールを取り上げているのは、この問題を考えるに、きわめて適切な材料が豊富に含まれているからにすぎない。
転機になった画家の結婚
前回記したように、ヨハネス・フェルメールの両親は、少なくも当時のオランダ改革教会の流れに身を置いていたようだ。改革教会の正会員ではなかったようだが、「緩いカルヴィニスト」であったのだろう。 フェルメールの転機は結婚とともにやってきた。画家ヨハネスと妻となったカタリナ・ボルネス Catharina Bolnes(ca.1631-88)とが、どこで、いかなるきっかけで出会ったのか、推測はできても本当のところはわからない。しかし、結婚に際して二人の宗派が異なったことが、かなりの障害となったことは顕著な事実のようだ。
ヨハネス・フェルメールは、ただ一人の姉が洗礼を受けた同じ新教会で幼児洗礼を受けていた(他には兄弟姉妹がいなかった)。改革教会(カルヴァン派)が家族の宗教だった。ヨハネスはそれについて、青年になるまでは深い疑問などを感じてはいなかっただろう。
フェルメールの実家であるデルフトの宿屋「メーヘレン」は、マルクト広場で新教会に対していた。これも前回記したように、父親は宿屋を経営する傍ら画商として絵画取引もしていた。若いヨハネスがここに来た画家や画商から、さまざまな情報を得ていたことは想像に難くない。しかし、画家ヨハネスが修業時代を含めて、デルフト以外にどこまで旅をしたのかは、一切不明である。ユトレヒト、アムステルダムくらいは行っていると思われるが、イタリアまで画業修行の旅をしたかは分からない。17世紀の画家で徒弟など画業修業の時期は記録がなく、空白であることが多い。出生の時は洗礼記録などでかなり確認できることが多いが、その後画家として世に認められる時までの記録はほとんど得られないのだ。若い画家ヨハネス・フェルメールと彼の妻になったカタリナ・ボルネスの出会いもほとんど明らかになっていない。
ヨハネス・フェルメールが結婚することを決めた時は20歳を越えており、徒弟などの修業をほとんど終えて、親方職人に向けて制作に没頭していた頃だろう。周囲の状況から推測するに、すでにその将来が期待される若い画家という評判が生まれつつあったようだ。この点は、地域はまったく異なるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの結婚した状況に似ているところもある。
他方、カタリナは貴族の家の出自で、ゴーダ(ハウダ)近郊の大地主の家に生まれた熱心なローマ・カトリックだった。 当時、異なった宗派に属する男女が結婚することはなかったわけではない。しかし、それぞれに難しい問題を抱えていた。
大きかった義母の存在
フェルメールの結婚に際しては、大きな障壁となったのは新婦カタリナ・ボルネスの母親マーリア・ティンスの存在だった。二つの文書がヨハネスの信仰問題について、解明の手がかりとされてきた。
ひとつは1653年4月5日付の公証人の署名が入った文書だ。フェルメール側のプロテスタントの船長 バーソロミュー・メリング Bartholomeus Melling とカタリナ・ボルネス側に立つ レオナルド・ブラーメル Leonard Braemerが証人となっている。二人ともヨハネスやカタリナとほとんど同世代の若者だったようだ。
マーリア・ティンスは熱心なカトリック信者だったが、この時は離婚・別居の状態だった。身持ちの悪い夫との20年近い家庭内のいざこざの挙句、夫をゴーダに残し、自分はひとりデルフトへ移っていた。
彼女の対応は、娘を改革教会派(カルヴァン派)の信者とは結婚させないようにとの地元の役人の警告にも支えられていたようだ。当初ティンスはこの結婚に同意しなかったが、デルフト市庁舎での結婚登録の担当者は、寛容でそうした反対理由を認めなかったらしい。
もうひとつの文書は1653年4月5日付でヨハネスとカタリナの結婚の登録を記録したものだ。デルフト郊外の小さな村スヒィプライ Schipluyで1653年4月20日、結婚にかかわる宗教的儀式を行っている。多くの専門家が4月5日から4月20日の間にフェルメールがローマン・カトリックに改宗したのではないかと推測している。フェルメールが義母マーリア・シンスの同意を確保するために改宗したのではないかという理由だ。義母が娘の結婚に反対することを公告にせず、耐え忍んだことへ対応したのではという推測だ。
スヒィプライという小さな村は、カタリナの実家があったゴーダから来たジェスイット(イエズス会)の司祭がおり、ローマン・カトリックの拠点になっていたようだ。当時のカトリック信者は、すでに公開の場でミサを執り行うことができなくなっていた。そこで、新婦の身内は、なんとかカトリックの儀式ができるこの教区を望んだようだ。この小村で新夫妻は納屋か私宅の隠れ教会でひっそりと挙式したようだ。
隠れキリシタン
フェルメールにとってカタリーナと結婚することを考えるようになってから、ローマン・カトリックは急速に切実な問題となったと思われる。義母のマーリア・シンスの家系はきわめて熱心なカトリック信者だった。家系のカトリック信仰の深さを示すひとつの例として、マーリアの妹エリザベスがルーヴァンで修道女になっており、その他の姉妹は結婚しなかった。 ネーデルラントでのカトリック信仰が公的には禁じられた後でも、自宅で密かにミサを上げていたようだ。こうした行為にはローカルのシェリフが介入したため、目こぼしを期待した付け届けが一般的に行われていた。
デルフトへ移ったマーリア・ティンスは、いとこで保護者としてゴーダ出身のヤン・ティンスが1641年に購入した家に住んでいた。この家はアウエ・ランゲンディク Oude Langendijk という通りにあった。そこはジェスイットがデルフトで最初の伝道教会を設けた場所と同じ通りで、カトリック信者たちなとが多く住んでいた。カトリック信仰が禁止された後は、隠れ教会がある場所として知られていた。単に信徒ばかりでなく、デルフト市の職員の間でも知られた存在だった。密かな宗教活動を黙認してもらうために、市の職員に年2000-2200ギルダーの賄賂が支払われていた。
プロテスタント側からは再三抗議があったようだが、こうしたサンクチュアリともいうべき隠れ教会は1550-1660年代にかけて、ジェスイット伝道教会の近くなどに多数開かれていたらしい。マーリア・ティンスの住んだ地域は、俗に「カトリック通り」 paepenhockとして周知の場所となっていた。
1641年にマーリア・ティンスのいとこがこの家を買った時、彼はおそらくデルフトのジェスイット信徒にミサなどのサーヴィスができる場あるいは学校など、賃貸料が得られるようなことを考えたのではないかと思われる。そして1641年ころまでに、フェルメール夫妻は、この場所へ移住する。なにがあったのだろうか。(続く)