時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

隠れキリシタン:17世紀オランダのカトリック(2)

2008年11月19日 | フェルメールの本棚

Johannes Vermeer. Christ in the House of Martha and Mary 1654-55 (?) Oil on canvas, 160 x 142 cm National Gallery of Scotland, Edinburgh  


 宗教改革後のネーデルラント(オランダ)におけるプロテスタント、とりわけカルヴィニズムとカトリックの関係は、厳しく抑圧された社会状況で信仰の選択がいかに行われるかという問題を考える際に、興味ある材料を提供してくれる。当時カトリックなど迫害の対象となった宗教各派のアイデンティは、いかに確保されたのだろうか。画家の制作活動にはいかなる影響があったと考えられるか。レンブラントやフェルメールなどの画家たちは、なにを考えて制作活動をしていたのか。この時代の宗教世界の状況をできるかぎり正確に把握しておくことが、作品の鑑賞の上でも新しい視点を開いてくれるような気がする。

スペイン支配への反乱  
 16世紀宗教改革において、ネーデルラントでは、ルター派の影響はあまり強くなかった。この地域は1560年代にカルヴィニズムの強い影響を受け、主としてカトリックからの改宗が進んだ。当時この地はカトリックのハプスブルグ・スペインの統治下にあり、フェリペII世は台頭するプロテスタントへの厳しい弾圧を実施し、異端審問の対象とした。当時のスペインは富と軍事力の双方で、世界最強を誇る一大王国だった。   

 こうした状況下で、ネーデルラントのカルヴィニストは、カトリックへの反乱を起こす。最初の反乱は1566年に南ネーデルラントの小都市に起こり、カトリック教会の聖像、聖人画などの徹底した破壊活動(イコノクラスム)を行った。その破壊のすさまじさは、今日においても実感できるほどの荒涼たる結果を生み、カルヴィニストの間にも行き過ぎの声があったほどであった。カルヴィニズムの創始者であるジャン・カルヴァンは当初フランスから追われ、各地を流転した後、ジュネーヴに戻り権力の座につき、そこを活動の中心とした。そして、カトリックあるいはプロテスタントの他の宗派に対して、きわめて苛酷で容赦ない対応をするようになる。聖像についてのカルヴァンの厳しい考え方は、より緩やかな対応をしたルターとは大きく異なっていた。   

80年戦争の勃発
 他方、スペインのフェリペII世は、アルバ公が率いる軍隊を派遣して、カルヴィニズムに対する容赦ない弾圧を実施し、ネーデルラントの独裁的支配の強化を図った。ここでカルヴィニスト側は、ついに武力闘争に立ち上がった。1568年にカトリック信徒から改宗したヴィレム・ファン・オラニエ公を指導者として、カトリック・スペインの支配からの独立を目指し、80年戦争(1568-1648)といわれる長い戦いが始まった。この時代の戦争は、現代のそれとは様相もかなり異なり、休戦期間が入ったりして、断続的であった。(1579年にはユトレヒト同盟が北部7州の間で結成され、1581年にはスペインからの独立を宣言した。)

 この戦いの間にも宗教間の争いは進み、1572年には北ネーデルラントのホーラント、ジーラントは、カルヴィニストが圧倒するまでになった。この2地域では、それ以前からかなりの数のカトリック教徒が、カルヴィニズムへ改宗していた。カルヴィニストが圧倒的になった地域のカトリック教会は、カルヴィニズムの教会(オランダ改革教会)へと転換させられた。しかし、他の地域はほとんどがカトリック優位のままであった。  

 カルヴィニズムが国教化したネーデルラントでは、カトリックなどの他宗派がすっかり追放されてしまったような記述に出会うことがあるが、実際はかなりの寛容度が保たれ、多宗教・宗派が共存していた。その実態は時期や地域でかなり異なっていた。  80年戦争勃発前のネーデルラントでは、宗教的にはカトリックの影響が大きかったが、プロテスタント、ユダヤ教などにも比較的寛容な宗教風土が保たれていた。しかし、スペインとの戦争が激しくなるに伴って、カトリックに対するカルヴィニストの反感、敵意、憎悪も増大していった。カトリック教会の没収、破壊、司祭の追放などが行われた。

  他方、多くのカトリック信徒はプロテスタントの拡大は一時的なものであり、再び自分たちの時代が来ると考えていたらしい。そして、いずれカルヴィニストの中にも改宗者が出るだろうと期待していた。しかし、現実には聖職者の国外追放などで、地方を中心に教徒の数は減少していった。そして、オランダ西部の都市ではドイツ、フランドル、フランスなどからプロテスタントの流入が目立ち、プロテスタントの文化がしだいに根付いていた。    

 この時代、ネーデルラントはローマン・カトリック布教の重点地域とされ、「ホーラント・ミッション」と言われるカトリック布教ミッションも活動していた。1635年頃にはオランダ共和国全体で2500人近くがカトリックへ帰依したという報告もあった。17世紀に入ると、イエズス会(ジェスイット)は、この地のカトリック信仰基盤を維持・拡大させたいと大規模な活動にとりかかった。全体にカトリックからカルヴィニズムへ改宗する傾向が強まっていたが、イエズス会が活動できる地域では巻き返しの動きもあった。フェルメールが活動したデルフトなどではいかなる状況であったか。大変興味を惹かれる点だ。

 カトリックへの攻撃が激しかった地域では、聖職者が国外追放されたりした。彼らの中で活動的だった者は、ケルンのカルドシオ修道会 Carthusian St. Barbara Monasteryへなどへ逃げ込んだ。ここは、16世紀末の北ネーデルラントに居場所を失ったカトリック聖職者が頼りとした最重要なところだった。ケルンはアントワープと並び、当時のカトリック宗教改革推進のための出版センターでもあった。他方、聖職者が不足したデルフトなどでは、1570年代に神学校 Alticollense seminary を作り、地元において聖職者の養成を行うという試みもなされた(Parker 28-30)。 

混沌とした宗教世界  
 全体としてみると、17世紀初頭ネーデルラントの宗教世界は、文字通り、混乱、機能不全ともいうべき状況にあった。しかし、1615年画家ヨハンネス・フェルメールの両親が結婚した頃には、プロテスタントがほぼ宗教世界での勝利を収めていた。オランダ改革教会 Dutch Reformed Churchに拠るカルヴァン派に加えて、ルーテル派、メノナイトなどのプロテスタント宗派が、カトリックが失った地盤を奪取しようと競っていた。  

 現実として、国家的布告ではカトリックは否定されていたが、宗教的自由はかなり認められていた。たとえば、ユトレヒトなどでは人口の多く、行政主体はカトリック教徒が占めていた。カトリックは地域の行政担当の役人を買収し、納屋や自宅などで秘密裏に活動を続けていた。役人に支払われた賄賂の標準額までわかっている。こうした苦難の時期を経て、ネーデルラントのカトリックが再活性化し、信仰主体として地盤を確立するのは17世紀中頃であった。

フェルメールの両親の結婚
 画家ヨハネス・フェルメールの宗教的背景を知るには、彼の両親の宗教にまで遡って見ておく必要があろう。フェルメールの場合は、その家族や姻戚などの記録が古文書としてかなり残っていたこと、モンティアスなどの後世の研究者の努力などがあって、この時代の宗教風土を推測するに格好の事例となっている。

 レイニール・ヤンスゾーン・フェルメール(alias;Vos, ca.1591-1652)とディフナ・バルテンス(ca.1595-1670)は、1615年アムステルダムで結婚した。花婿は当時は織物織工だったらしい。花嫁はアントウエルペンの出であった。式を司ったのはカルヴィニストの改革教会の聖職者だった。レモンストラントでデルフト新教会牧師が、デルフトの外での結婚について花嫁側の証人となった。この結婚は新夫妻が改革教会の信仰秩序の下に入ることを意味していたが、新夫妻のいずれも改革教会の正会員(聖体拝領の秘蹟を授ける儀式に参列できる)たる記録を残していない。さほど熱心なカルヴィニストではなかったことが分かる。ちなみに、フェルメールの祖母、叔母、曾祖母はすべて改革教会の正会員だった。式には当時一般に見られたカルヴィニスト、カトリック、レモンストラントなどが参加したものだった。こうした祝い事などの折は、宗派を問わず集まったようだ。    

 フェルメールの両親が生活の場としたデルフトでは、新教会Nieve Kerkが宗教・公的生活の中心となった。新教会は重要なカルヴィニストの家族にとっての交流の場であった。この教会にも1556年10月に最初のイコノクラスムの波が襲い、改革者たちは多くの装飾があった内陣を大きく破壊、変更し、聖人像などを破壊した。17世紀初めまでにすでに250年の歴史を持っていたこの教会は、1584年に暗殺されたヴィレム・ファン・オレニエ公という国家的英雄の墓所ともなった。

 新教会と並んで旧教会 Oude Kerk もすでに1570年代にカルヴィニストが占拠し、聖像、聖人画などを撤去していた。このため、カトリック信者は公共の場でミサなどの宗教上のサーヴィスを受ける場を失った。こうした状況で、カトリック聖職者の間では、教会にかかわる奇跡などの伝承を布教のために生かそうと、かつて存在したマーリア・ジェッセ Maria Jesse など失われた聖像にかかわる奇跡の記録などが作成されていた(Parker 179)。   

 1620年にはフェルメールと唯一、姉弟の関係になるヘルトライが新教会で洗礼を受け、1632年10月31日には同じ教会でヨハネス・フェルメールが洗礼を受けた。ヨハネスには他に兄弟姉妹がなかったようだ。フェルメールの父親レイニールは、しばらくフォルデルスフラハトで「空飛ぶ狐」 De Vliegende Vos の屋号で居酒屋を兼ねた宿屋を経営しながら、画商もしていたようで、そのために1631年には画家・工芸家ギルド「聖ルカ組合」にも入会していた(この宿屋は後に聖ルカ組合の本部が置かれる場所となった)。その後1641年、マルクト広場に面した「メーヘレン」 Meehelen の屋号で知られる大きな家を購入、転居し、宿屋と画商を再開した。この年、後の画家ヨハネス・フェルメールは9歳だった。

 1648年、ミュンスター協定で、オランダとスペイン間の戦争は終止符が打たれ、ウエストファーリア条約が締結され、ヨーロッパ諸国は、オランダの独立を承認した。

 1652年にはフェルメールの父親レイニールが死去。宿屋の経営と画商の仕事は唯一の息子ヨハネスが継承したと思われるが、日常の仕事は母親がしていたのかもしれない。この時、ヨハネスは20歳であり、すでにどこかで徒弟修業を終わり、画家としての独立の道を歩んでいたと思われる。
(続く)

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