Johannes Vermeer, Allegory of Faith, ca.1672-4(oil on canvas, 114.3x88.9 cm)m New York, The Metropolitan Museum of Art, The Friedsman Collection, Bequest of Michael Friedsam, 1931.(Details)
フェルメールの作品「信仰の寓意」The Allegory of Faithを、多くの研究者は「失敗作」あるいは「凡作」としてきた。フェルメールらしからぬ作品とする研究者もいる。古文書記録の山の中から画家の生涯を掘り出したモンティアスも、作品に描かれたあるものは、「異質」alien であると評した。しかし、仮に美術的観点から凡作としても、この作品はフェルメールの作品歴、そして画家人生の中では、きわめて重要な重みを持っているのではないかという直感を抱いてきた。単にひとりのアマチュア鑑賞者としての感想にすぎなのだが、その後、かなり同意、賛同してくれる美術専攻の友人も現れ、多少意を強くした。
この作品、フェルメールの少ない作品の中でも数少ない寓意画なのだが、画家の精神世界、とりわけ17世紀という時代の宗教と美術制作思想の関係を推理するには貴重な一点だと思うようになった。
作品は、見て明らかな通り、キリスト教信仰、とりわけカトリック信仰とのつながりを直ちに連想させるものだ。画面一面に描きこまれたさまざまな品々のイコノグラフィカルな意味については、すでに多数の専門家が述べているように、1644年オランダで出版されたリーパの『イコノロギア』Cesare Ripa’s Iconologia(Iconology) の叙述にほぼ従って、フェルメールが選択し、描いたものであるようだ。たとえば、卓上の聖餐杯と書籍は信仰のアトリビュートとされている。
謎の鍵はガラスの球体に
無数に描かれている品物の解釈については、美術史家に任せるとして、この作品を見た時、不思議に思ったのは、この劇場的なポーズをとっている女性とその視線が向いた先であった。胸に片手を当て、なにかに驚いたかのごとく、その姿態はいかにも大仰で、およそ日常の光景ではない。そして、フェルメールの世俗画ジャンルには、現れない表情でもある。目を大きく見開き、この画家が好んで描いた世俗の人間の顔色ともかなり異なっている。画家がある意図をもって擬人化を試みた現れと思われる。
しかし、描かれた女性の表情には驚愕、恐怖などのかげりはなく、明らかに日常を超えたなにかに覚醒したような、まるで天啓を受けたかのごとき、不思議なものだ。そして、彼女の視線が向けられた先は、頭上から一本の青い色の紐あるいは棒で支えられた奇妙なガラスの球体である。
この時代の宗教画、風俗画などは、かなり見てきたが、ほとんどお目にかからない品である。まるでガラス工場で職人によって吹かれ、球体になったものが、そのまま天井から下げられているような感じすらする。紐の青色と女性の衣装の色、天井とのつなぎ目の支えのようにみえるものも意味ありげだ。
それ以上に、この作品の中では、この球体自体が時空を超越したような存在にみえる。現代の部屋の照明、あるいは実験器具といってもおかしくない。この球体に似たものは、ヘシウスの手になるジェスイットの印刷物(1636年)のエンブレムに見いだされるという研究(De Jongh,1975-6 quoted by Hedquist)もあるようだ。フェルメールが着想を得たと思われる、この球体に類似するエムブレムの該当図は、小林(2008、p224)にも掲載されているが、そこでは、霊魂を象徴する翼を持つ若者が、奇妙な球体を手にしている。ガラスの球体も宇宙世界を映し出せるように、人間の限られた魂も神を理解することができるということらしい。球体は小さくとも無限の天上世界を映し出すという含意があるようだ。エンブレムでは翼を持つ若者とともに、十字架や太陽が描かれている。
The Allegory of Faith (details)
「神は細部に宿る」
さらに、一見して興味をひかれたのは、このガラスの球体の表面に映り込むように描かれたものが何であるかということだった。光沢のあるガラスの球体表面には、写真ではないので判然としないが、画家の工房の一部が、閉ざされている窓からの光を通して描かれているようだ。
ガラス球の表面をを改めて見ると、どうも画家の工房が映っているようだ。閉じられた窓から入った明るく鋭い光が前面のタペストリーに射している。その他の部分は、より柔らかな微妙な光で包まれている。球体には、さらに劇場的なポーズで球体の方を見上げる女性の姿のようなものが描かれている。
画家はもしかすると、ヘッドキスト Headquist などが推論するように、この小さな球体を媒介に、見えないものを具象化しうる神の創造的な力を示そうとしたのかもしれない。これは、カトリック的審美感ともつながるものだ。一部にいわれるフェルメールのカトリック教義についての理解の浅薄さ、そしてそれに基づく作品制作も失敗と評することの正否は、にわかに判断できない。しかし、フェルメールが過ごした環境からしても、画家のカトリック、プロテスタント双方の教義についての理解と思索はかなり深かったと思わざるを得ない。さもなければ、この時代に、元来カルヴァン派を宗教としていたフェルメールが、熱心なカトリック信徒の義母、妻などと共に「カトリック通り」に位置する同じ家に住むことはきわめて難しかっただろう。
この作品、こうして見ていると実に色々なことが思い浮かぶのだが、後生のこの画家を評する折には、いつも周辺部分に追いやられている感じがしてきた。メトロポリタン美術館に富豪フリードサムによって遺贈されるまでの遍歴でも、買い手がつかなかったこともあったようだ。この作品を手にし、一時はマウリッツハイス美術館の館長もしており、画商的な仕事をしていたブレディウスもフェルメールの作品としながらも、お好みでなく、手放したがっていたようだ。
ここで強調したいことは、フェルメール研究者や愛好家が、凡作、フェルメールらしからぬ作品と評することは、必ずしも正確ではないと思うことだ。これもフェルメールなのだ。その点を見逃すと、フェルメールの過ごした17世紀ネーデルラントという時代の精神的・宗教的風土を十分理解することはできないだろう。
これまでの作品評価について、アマチュア鑑賞者として多少違和感があるのは、美術史家などの手になる専門書を見ていると、美術品としての凡作は、注目度が低く、時には真作の中には含めたくないという思いのようなものがかすかに伝わってくることだ。大家は駄作、凡作は描かないというひいき目のようなものがどこかで働くのだろう。もちろん、これはフェルメールに限ったことではないのだが。
(続く)
References
Walter Liedtke with Michiel C. Plomp and Axel Ruger. Vermeer and the Delft School. New York: The Metropolitan Museum of Art, New Heaven: Yale University Press, 2001 .
Valerie Hedquist. ‘Religion in the Art and Life of Vermeer.’ The Cambridge Companion to Vermeer, edited by Wayne E. Frantis. Cambridge: Cambridge University Press, 2001.
小林頼子『フェルメール論』八坂書房、2008年