今年の特徴を1字であらわす文字として、「変」が選ばれていた。「変なブログ」を自認する者としては、「変な」現象、異変は世界で今年に限らず、かなり前から起きていたと思うのだが、今はそれには触れない。ここで記すのは、少し違ったことである。
手にしたばかりの文芸誌『考える人』2009年冬号が、「書かれなかった須賀敦子の本」を特集としていた。この作家の作品は、いくつか読んでいた。文体は平易でほとんどエッセイといってよいものであり、重い感じはしないが、後で心に残るものがあった。
多くを読んだわけではないが、特に印象に残ったのは、『ミラノ 霧の風景』、『コルシア書店の仲間たち』の2冊だった。短いエッセイは目に触れた時に、いくつか読んではいた。暇になったら、もう少し他の作品を読んでみたいと思う作家の一人だった。雑事にかまけて、フォローが遅れている間に、いくつかの文芸誌、たとえば『芸術新潮』、『考える人』*の特集が続けて出て、この作家が亡くなってもう10年過ぎたのかと気づかされた。読みたい本のメモは残しておくべきだったと感じたが、いつものとおり手遅れだ。
今回、とりわけ惹かれたのは、『考える人』に掲載されている、書籍になることなく残された未定稿「アルザスのまがりくねった道」であった。作者が目指した最初の小説だったようだ。残念ながら序章だけが未定稿のままに残されている。 作者が人生の途上で出会ったアルザス生まれの友人で、修道女のオディール・シュレベールと彼女の故郷コルマールが出てくる。彼女がなぜ遠い日本へとやってきて、フランスへと戻って行く人生を過ごしたのか。
アルザスそしてロレーヌについては、このブログでも少し記したことがあった。というよりは、この見ようによってはヨーロッパの中心部に位置しながら、多くの過酷な戦乱、災厄に翻弄され、それでも華麗な文化の残照のようなものを残し、今ではなんとなく忘れられた地域は、自分の人生のかなり早い時期から身体の中に入り込んでいた。今回、作者の未定稿を読んでいて、なにか不思議な思いに駆られた。
作者に実際にお会いしたことはないのだが、非常に多くの脳裏をよぎるものがあった。須賀さんが作家活動に入られる前に、その近くにおられた方何人かとは面識があるのも、今となると実に不思議だ。
今日は記憶をたどるひとつの糸口として、この作品の中から、次のパラグラフを引用しておきたい。あるバス停近くで、作者と修道女の間で交わされた会話の部分である:
「なにが一瞬、彼女をためらわせたのかが知りたくて、わたしはたずねた。いつもはバスに乗るの? あら、もちろん歩いていくつもりだったわ。バスなんて、もったいないでしょう。それに、わたしはこのとしでもまだ歩くのが人より速いの。アルザス人だからよ。アルザスでは、こどものときからどこへ行くにも歩かされるのよ。ここから駅までだって、十分くらいかしら、わたしの足なら。わたしは思わず彼女の顔を見た。彼女よりずっと若い修道女や、学生たちが、その駅に行くバスを待っているのをわたしはよく見かけていたからだ。」(アルザスのまがりくねった道」『考える人』2008年冬号、91ページ)
アルザスへは何度か旅をした。昨年も出かけた。最初訪れたのは、須賀さんの作品のことなど、まったく知らないころである。しかし、アルザス人が健脚で早足であるとは、これまでまったく聞いたことがなかった。この地に住んでいた友人との会話でも話題にはならなかった。彼が歩くことが比較的好きなことには気づいていたが、すでに自動車の時代へ入っていた。この地をめぐる時はいつも車を使った。
須賀さんが記しているバス停の場所も、だいたいあのあたりと目に浮かぶ。そこから想像されるコルマールへのまがりくねった旅の軌跡は、W. G.ゼーバルトの一連の作品に似ているところもある。実は、ヨーロッパの歴史や地理をたどりながら、いつとはなしに、最もヨーロッパらしい部分を奥深く残す地域は、アルザス・ロレーヌではないかと勝手に思いこんでいた。表面は無惨に傷つきながらも、懐深く秘めているような感じといおうか。別に歴史家など専門家の意見を聞いたわけではない。自分だけの思いこみにすぎない。
須賀さんの遺稿は、序章だけで終わっている。その後については、ほとんど単語の断片としかみえない「創作ノート」だけが残されている。旅の終着までの道筋は、ほとんど想像するしかない。それを知りえないことは大変残念だが、その道をあれこれ夢想することは、なにかの支えになるのかもしれないと今思っている。
* 「特集:没後10年 須賀敦子が愛したもの」『芸術新潮』2008年10月
「特集:書かれなかった須賀敦子の本」『考える人』2009年冬号