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日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「マイ・ドリーム」を読む  

2008-12-02 21:36:48 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
先月大統領選挙で勝利したバラク・オバマ氏が1995年に初版を出した「マイ・ドリーム」を読みました。
彼の生い立ちから、大学院入学前に、父親の国ケニアを尋ねたところまでですから、20代前半頃までの記述です。

昨今、大統領候補ということで、マスコミにも情報が随分取り上げられているので、おおよそは皆さんもご存知だと思います。
カンザス生まれの白人の母とケニア出身の留学生がハワイ大学で知り合い、オバマ氏は生まれました。双方学生。彼が1歳のころか、向上心の強い父親は、ハーバード大学への留学希望を優先させ、母子はハワイでの別居生活になります。そのまま親子は一緒に暮らすことなく、両親は程なく離婚。その後母親はインドネシア人留学生と恋仲になり、オバマを連れて結婚のためにインドネシアへ向かいます。
人種の違いにもおおらかな祖父母に育てられた母はにとっては、その地にあっては、その地の生活をという育てられ方をします。ただ教育を大切に思う母は、現地の学校教育だけではと考えたのか、毎朝4時起きで、オバマにアメリカの通信教育も施すのです。そして6歳、母親と離れてハワイの学校に編入。祖父母との生活が始まります。
母親から、同居の祖父母から、去っていったケニア人の父親の有能さ、魅力的な個性を聞かされて育ちます。
オバマの中での父親の記憶は、10歳のときにハワイに立ち寄った時の出会いのみ。白人家庭の中にあって、家族とも違う、黒人の少ないエリート学校にあってクラスメートと違う肌の色を意識せずにはいられません。自分は母親とも祖父母とも違う、アメリカの黒人とも違う、思春期に向う彼は孤立感を併せ持つ少年として育っていくのです。

つづく
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追悼 俵萌子さん

2008-12-02 07:23:34 | 私の雑感あれこれ
今朝の新聞に11月27日肺炎で死去77歳との死亡記事。
そう、70代で、まだまだなのに、こんな形で死は訪れるのかと、記事の写真を眺める。写真の彼女笑顔。

俵萌子さんというと、若い世代では知られていないのでしょうね。
働く女性の旗手のような方でした。
それが、正しい判断かどうか、評価は分かれるでしょうけれど、
ワタシが20代のころに読んだ、彼女の話、コレまでに何度も思い起こしたものです。
彼女が新聞記者だったころ、小さな子供たちが布団で寝ている間を、踏まないように、そっと跨いで、仕事に出かける母親だったと。
そして、万一この子らに事故でもあったら、それはワタシの責任。その責任が降りかかってくるのも承知で、仕事を続けているのだ。
そういう趣旨だったように覚えています。
仕事を続けていくということに、自分はそこまで本気だという意味をも込めて。

子育て中、自分が二人いたら、という思いを持つことがある。
高熱で水枕に寝かせて、なんかあったら電話してね。
呼び出し音3回で切れる電話はお母さんの電話の合図。
それ以外の電話は無理に出なくてもいいから。
雨が降っても迎えには行けず・・・。

そんなときは、いつも俵さんの言葉を持ち出して、自分の背中を押していました。

そして、皆さんご存知でしょうか。
離婚時に、かつては女性は旧姓に復帰する制度でした。
現在は、離婚届で用紙に離婚後どちらの姓を名乗るか選択できるようになりました。
同業の俵孝太郎氏と結婚後に、「俵」姓になって社会で認知されている彼女は離婚後一律に旧姓に戻るべきというのは女性に不利益を強いることになると訴えたのは、俵さん、彼女だったと記憶しています。
そういえば、時代の旗手だった彼女の名前を聞かなくなって、随分になります。
77歳、早いような気もしますが、彼女のこと、生き切ったのだと、勝手に想像しています。

追記:今日は「マイ・ドリーム」の書評を書こうと思ったのに・・・、亦の日にします。


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