「マイ・ドリーム」のケニア滞在の著述は興味深く読めたので、つづきを書いておかなくては、と思いながら数日。
でも、こっち(文庫本の「氷川清話」の中の、勝海舟伝)の、このフレーズが、まったく時期にぴったりな気がして、ここに書きとめておきます。
抜粋
海舟がアメリカから帰国して、老中から尋ねられた話がある。
「そちは一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼をつけたことがあろう。詳しく言上せよ」
このとき海舟は結局こう答えた。
「さよう、少し目に付きましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」
つまり海舟がアメリカで把んできたものは「能力主義」という人事管理能力の方式にあった。血筋・家柄・身分・肩書で人を配置するのでなくて、能力相応に役割と地位を配分するというシステムである。
引用ここまで
時代は1860年代、幕末。咸臨丸で行ったアメリカで見たものをと、問われて、勝海舟が答えた返答です。
-1860年アメリカはリンカーンが大統領に就任、その後60年代半ばまで南北戦争の混乱の時代
咸臨丸の一行はワシントンを訪ねている(彼らが滞在したホテルは、現在もワシントンで健在でした)
当時のサンフランシスコは人口6万人の港町とあります。行ったことはないのですが、現在の見聞きするイメージと随分違うものが想像できます。
海舟はアメリカ行きの前にも、オランダ人高官との交渉を重ねており、西欧の風を察していたというか、当時の日本では飛びぬけて外国通の人でした。
鎖国していた日本の窓口は長崎だけ。そこから僅かに入ってくる辞書、書物を丸写しして学んだ人(書物の借り賃も高く、2部写して、一部を売って借り賃を捻出したとか、持ち主が寝ている夜中の本があいている時間に書き写させてもらったとか)で、貧乏旗本の身分ながら、着実に力をつけていき、力の弱った幕府には、なくてはならない存在とまでのし上がった人物でもあったのです。
でも、こっち(文庫本の「氷川清話」の中の、勝海舟伝)の、このフレーズが、まったく時期にぴったりな気がして、ここに書きとめておきます。
抜粋
海舟がアメリカから帰国して、老中から尋ねられた話がある。
「そちは一種の眼光をそなえた人物であるから、定めて異国へ渡りてから、何か眼をつけたことがあろう。詳しく言上せよ」
このとき海舟は結局こう答えた。
「さよう、少し目に付きましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」
つまり海舟がアメリカで把んできたものは「能力主義」という人事管理能力の方式にあった。血筋・家柄・身分・肩書で人を配置するのでなくて、能力相応に役割と地位を配分するというシステムである。
引用ここまで
時代は1860年代、幕末。咸臨丸で行ったアメリカで見たものをと、問われて、勝海舟が答えた返答です。
-1860年アメリカはリンカーンが大統領に就任、その後60年代半ばまで南北戦争の混乱の時代
咸臨丸の一行はワシントンを訪ねている(彼らが滞在したホテルは、現在もワシントンで健在でした)
当時のサンフランシスコは人口6万人の港町とあります。行ったことはないのですが、現在の見聞きするイメージと随分違うものが想像できます。
海舟はアメリカ行きの前にも、オランダ人高官との交渉を重ねており、西欧の風を察していたというか、当時の日本では飛びぬけて外国通の人でした。
鎖国していた日本の窓口は長崎だけ。そこから僅かに入ってくる辞書、書物を丸写しして学んだ人(書物の借り賃も高く、2部写して、一部を売って借り賃を捻出したとか、持ち主が寝ている夜中の本があいている時間に書き写させてもらったとか)で、貧乏旗本の身分ながら、着実に力をつけていき、力の弱った幕府には、なくてはならない存在とまでのし上がった人物でもあったのです。