『お登勢』に続いて、船山馨作品2冊目。
活字の細かい長編が読めることに感謝。それも結構集中的に読めた。白内障の手術をしたお陰だと、こんな時にも思う。
時代は幕末も押し迫ったころから始まる。箱館には外国船が頻繁に渡来し、外国人が行き交う姿は江戸のひとよりも横浜の街より見慣れた光景となっていたそうです。
港が開かれたことにより江戸幕府の施設がおかれ、五稜郭建築が急がれる頃、五稜郭の設計者でもあり、佐久間象山に師事もした武田斐三郎(30歳代)の私塾に向学心に燃えた人材が集まってきていました。適塾で多くの若者が学んでいた時代でもあります。適塾であの大村益次郎と揖三郎はともに学んだ仲間でもあった(今も緒方洪庵の『適塾』は大阪大学医学部の管理下で保存されています。大阪出張の折にその資料館となっている適塾を訪れる人たちがいたりするそうです)。
徳川時代という封建社会からの移行期の動乱(戊辰戦争)が描かれている。長崎でポンぺに西洋医学を学んだ俊英たちの歴史小説も読んでいるし、戊辰戦争を徳川側として最後まで戦った長岡藩河合継之助の顛末を書いた『峠』も読んでいます。同じ事態を描いた作品をこうして重ねて読むことの面白さも感じながら読み進めることができました。
箱館戦争の悲惨さ。西洋医学をイギリスで学んできた医師高松凌雲は、戦地にあっては負傷した敵兵も味方と同じに治療する博愛精神に徹したと書かれており、かつて読んだ書物の復習した気分でもありました。(吉村昭著『白い航路』だったかな? 司馬遼太郎著の『胡蝶の夢』は松本良順だったはず?)
河井準之助とおゆきが時代に翻弄されながらも、信じる道を生き抜こうとする姿、彼らをサポートしてくれる善意の人々を通して、周りで起きている戊辰戦争、そして渡欧したパリでの普仏戦争、パリコミューンの状況を描いている物語です。
薩長土肥が尊王攘夷を主張し、そのための倒幕を唱えていたけれど、倒幕ではなく、実態は討幕であり、徳川から自分たちが政権を奪いたいのが主目的だったのではないか、と。公武合体に賛同の孝明天皇は徳川政権をむやみに失脚させたかったわけではなかったから、孝明天皇の死(毒殺か、という説も流れたそうです)は薩長には好都合であり、次の幼帝(16歳の明治天皇)を味方につけて、徳川方を朝敵にして追い打ちをかけた、という。ぼんやりとその手の話題は知っていたけれど、何度目かの読書が復習になった感があります。戊辰戦争に巻き込まれアワヤというところで、二人のパリへの渡航が叶います(1870年・明治3年)。
そのパリでも普仏戦争の真っただ中。というか、ウィルヘルム1世が君臨し、将軍がビスマルクのドイツの軍勢は圧倒的で、フランス政府は市民には威勢のいいことを言いつつも、自分たちの地位が失われないことを最優先にしてベルサイユ宮殿でウイーン講和条約を結びます。世界の歴史を扱ったYouTubeでも、ベルサイユ宮殿でウィーン会議が、、、と聞いたような? 降伏した側の宮殿で講和条約?と思っていたところがあるのですが、その顛末もざっくりと判ったような気がしました。
フランスの統治者はドイツとの講和内容が多少振りであっても、優先して気になっていることは、それが市民に知れ渡って市民からの反発が盛り上がることを恐れているのです。そう。実際にも市民が立ち上がってのパリコミューンとなっていきました。
読んでみたいと思って借りたけれど、文字が細かすぎて最初の数ページであきらめた本があります。大佛次郎著『パリ燃ゆ』です。
その数ページに、たくさんのパリ市民が命を落とし、モンマルトルの丘の各所に死体が埋められて、歩くと足元の土が柔らかかった(?)のような記述があった記憶があります。20年ほど前にパリのモンマルトルの丘を歩いたことがあります。『パリ燃ゆ』にかかれていたことを思い出しながら歩いていると大規模な墓地があったこと、教会あたりまで行くとパリの街が一望できたことを覚えています。ちなみにパリコミューンで打ち立てた市民政権は72日の短期で終わったそうです。レミゼラブルの作者ビクトル・ユーゴーもこの市民政権樹立時に代議士に選出されているそうです。ビクトル・ユーゴーは作家、詩人でもありますが、社会派の新聞記者(?)でもあって、その時の趨勢を逐一発信していたとどこかほかの書物で読んだことがあります。『レ・ミゼラブル』で描かれているのはこのパリコミューンの時代より前の19世紀前半のことらしいのですが、彼自身もパリコミューンの市民革命の当事者でもあったということです。
箱館て戊辰戦争の悲惨の最中を何とか生き延びで向かったパリでも爆弾が飛び交う状況(1971年)。二人の間に1児が生まれ喜ぶ二人だったが、準之助は用心しながら出た街中で戦闘に巻き込まれ家に戻ることはなかった。この街中に爆弾が降ってくる状況。今、2023年の今も現実にある、ということがどうしようもなく無残です。
パリで料理見習いをしている準之助はおゆきに、箱館に帰ったらお店を出そう。もう店の名前は決めている、という場面があります。
『雪河亭』
今もあります。(但し創業明治12年のロシア風パン店から始まるとなっている。おゆきが料理職人に育った息子寛と帰国したのは明治27年とあるから、途中で店名が変わったのかも?)
今度函館を訪ねる機会があったら、立ち寄ってみたいものです。
👆 こんなこと夫に話題にすると、「キミは物好き。ミーハーだね~」と呆れられるから、きっと一人旅で行くでしょう。苦笑
モンマルトルを歩いたのは大事な思い出です。ベルサイユ宮殿にナポレオン3世の間(彼の遺品が置いてある)があったので、知識がなかった私はなんで?と思ったけれど、パリの混乱の時代に政府がベルサイユに本拠を移していた時代もあったからでしょうか。
海外旅行なんて、行かなくても本を読めば深く理解できるのに、なぜ行く必要がある、と必ず反論してくる夫。私は両方がある方がいい派、です。
クドクドと書きましたね。
感想の一端(読んだ印、あしあと)を吐き出してスッキリ。次に進みます。
読んでくださった方がいらしたとしたら、ありがとうございます。
活字の細かい長編が読めることに感謝。それも結構集中的に読めた。白内障の手術をしたお陰だと、こんな時にも思う。
時代は幕末も押し迫ったころから始まる。箱館には外国船が頻繁に渡来し、外国人が行き交う姿は江戸のひとよりも横浜の街より見慣れた光景となっていたそうです。
港が開かれたことにより江戸幕府の施設がおかれ、五稜郭建築が急がれる頃、五稜郭の設計者でもあり、佐久間象山に師事もした武田斐三郎(30歳代)の私塾に向学心に燃えた人材が集まってきていました。適塾で多くの若者が学んでいた時代でもあります。適塾であの大村益次郎と揖三郎はともに学んだ仲間でもあった(今も緒方洪庵の『適塾』は大阪大学医学部の管理下で保存されています。大阪出張の折にその資料館となっている適塾を訪れる人たちがいたりするそうです)。
徳川時代という封建社会からの移行期の動乱(戊辰戦争)が描かれている。長崎でポンぺに西洋医学を学んだ俊英たちの歴史小説も読んでいるし、戊辰戦争を徳川側として最後まで戦った長岡藩河合継之助の顛末を書いた『峠』も読んでいます。同じ事態を描いた作品をこうして重ねて読むことの面白さも感じながら読み進めることができました。
箱館戦争の悲惨さ。西洋医学をイギリスで学んできた医師高松凌雲は、戦地にあっては負傷した敵兵も味方と同じに治療する博愛精神に徹したと書かれており、かつて読んだ書物の復習した気分でもありました。(吉村昭著『白い航路』だったかな? 司馬遼太郎著の『胡蝶の夢』は松本良順だったはず?)
河井準之助とおゆきが時代に翻弄されながらも、信じる道を生き抜こうとする姿、彼らをサポートしてくれる善意の人々を通して、周りで起きている戊辰戦争、そして渡欧したパリでの普仏戦争、パリコミューンの状況を描いている物語です。
薩長土肥が尊王攘夷を主張し、そのための倒幕を唱えていたけれど、倒幕ではなく、実態は討幕であり、徳川から自分たちが政権を奪いたいのが主目的だったのではないか、と。公武合体に賛同の孝明天皇は徳川政権をむやみに失脚させたかったわけではなかったから、孝明天皇の死(毒殺か、という説も流れたそうです)は薩長には好都合であり、次の幼帝(16歳の明治天皇)を味方につけて、徳川方を朝敵にして追い打ちをかけた、という。ぼんやりとその手の話題は知っていたけれど、何度目かの読書が復習になった感があります。戊辰戦争に巻き込まれアワヤというところで、二人のパリへの渡航が叶います(1870年・明治3年)。
そのパリでも普仏戦争の真っただ中。というか、ウィルヘルム1世が君臨し、将軍がビスマルクのドイツの軍勢は圧倒的で、フランス政府は市民には威勢のいいことを言いつつも、自分たちの地位が失われないことを最優先にしてベルサイユ宮殿でウイーン講和条約を結びます。世界の歴史を扱ったYouTubeでも、ベルサイユ宮殿でウィーン会議が、、、と聞いたような? 降伏した側の宮殿で講和条約?と思っていたところがあるのですが、その顛末もざっくりと判ったような気がしました。
フランスの統治者はドイツとの講和内容が多少振りであっても、優先して気になっていることは、それが市民に知れ渡って市民からの反発が盛り上がることを恐れているのです。そう。実際にも市民が立ち上がってのパリコミューンとなっていきました。
読んでみたいと思って借りたけれど、文字が細かすぎて最初の数ページであきらめた本があります。大佛次郎著『パリ燃ゆ』です。
その数ページに、たくさんのパリ市民が命を落とし、モンマルトルの丘の各所に死体が埋められて、歩くと足元の土が柔らかかった(?)のような記述があった記憶があります。20年ほど前にパリのモンマルトルの丘を歩いたことがあります。『パリ燃ゆ』にかかれていたことを思い出しながら歩いていると大規模な墓地があったこと、教会あたりまで行くとパリの街が一望できたことを覚えています。ちなみにパリコミューンで打ち立てた市民政権は72日の短期で終わったそうです。レミゼラブルの作者ビクトル・ユーゴーもこの市民政権樹立時に代議士に選出されているそうです。ビクトル・ユーゴーは作家、詩人でもありますが、社会派の新聞記者(?)でもあって、その時の趨勢を逐一発信していたとどこかほかの書物で読んだことがあります。『レ・ミゼラブル』で描かれているのはこのパリコミューンの時代より前の19世紀前半のことらしいのですが、彼自身もパリコミューンの市民革命の当事者でもあったということです。
箱館て戊辰戦争の悲惨の最中を何とか生き延びで向かったパリでも爆弾が飛び交う状況(1971年)。二人の間に1児が生まれ喜ぶ二人だったが、準之助は用心しながら出た街中で戦闘に巻き込まれ家に戻ることはなかった。この街中に爆弾が降ってくる状況。今、2023年の今も現実にある、ということがどうしようもなく無残です。
パリで料理見習いをしている準之助はおゆきに、箱館に帰ったらお店を出そう。もう店の名前は決めている、という場面があります。
『雪河亭』
今もあります。(但し創業明治12年のロシア風パン店から始まるとなっている。おゆきが料理職人に育った息子寛と帰国したのは明治27年とあるから、途中で店名が変わったのかも?)
今度函館を訪ねる機会があったら、立ち寄ってみたいものです。
👆 こんなこと夫に話題にすると、「キミは物好き。ミーハーだね~」と呆れられるから、きっと一人旅で行くでしょう。苦笑
モンマルトルを歩いたのは大事な思い出です。ベルサイユ宮殿にナポレオン3世の間(彼の遺品が置いてある)があったので、知識がなかった私はなんで?と思ったけれど、パリの混乱の時代に政府がベルサイユに本拠を移していた時代もあったからでしょうか。
海外旅行なんて、行かなくても本を読めば深く理解できるのに、なぜ行く必要がある、と必ず反論してくる夫。私は両方がある方がいい派、です。
クドクドと書きましたね。
感想の一端(読んだ印、あしあと)を吐き出してスッキリ。次に進みます。
読んでくださった方がいらしたとしたら、ありがとうございます。