昭和30年代の団地は立て替え 高層化
≪観察記≫
都営高砂団地は、昭和30年代築の古い団地で、建替え工事です。
1963年(昭和38年)~69年(昭和44年)にかけて建設され、
総住戸数1263戸の大規模団地でした。
以前の建物
団地案内配置図
煙突様なものは給水塔 珍しいブリキの煙突??
現在は取り壊されて新たに高層化されて一部を残すのみとなっています。
再開発に向けて動き出した高砂団地
東京、大阪などの大都市圏は、戦後の大量労働力を地方から受け入れた。
郊外には、巨大なニュータウンが次々と建設され、「団地族」なる新語が生まれた。
東京の都心から京成線で30分。駅前に、5階建てを中心とする高層住宅群が広がる。
もともと広大な田や畑でした。東京への人口集中に対応するため、
人工都市として建設し一大ニュータウン(高砂団地)として繁栄した。
住民の多くは戦後の第1次ベビーブームで生まれ、民主主義教育を受けた団塊世代の20代夫婦。
すぐさま赤ちゃんの誕生ラッシュが始まった。
「団地内だけで毎年多くの子供が生まれる状況が数年続き、
あっという間に、どこの世帯も子供中心の世帯になった。
高度成長期も終わりに近づくと、農漁村の過疎と都市の過密は大きくっ広がり社会問題化した。
そんな中、団地は若い住民で活気にあふれていた。
ここ高砂団地でも小学校が不足し、団地の近辺に明石小学校が増設されましたが、
時代の波、団地に子供がいなくなり、今は廃校となっています。
ここで示した大規模住宅団地は、一度に開発・居住がなされたことから、
年齢的に同じような世代が入居している。
そして、子ども達が就職や結婚などをきっかけに
独立するケースが多いため、居住している世帯の規模は縮小する。
残った親世代が居住を継続しているため、空き地・空き家等はそれほど出現していないまでも、
住宅団地全体が高齢化して賑わいを失って活気が見られない。
急速な高齢化が進み、空き家や空き地が増加して景観の悪化や、防犯・防火上の懸念、
エレベーターが無いため階段の上がり降りが困難をきした。
予想されることは限界団地、スラム化、高齢化団地、などと呼ばれるようになり、
全く賑わいを失いひっそりとした団地と化した。
東京都、葛飾区、地元町会が一体となって団地高層化、駅前再開発のもとに、
リニューアル化により賑わいを取り戻しつつあります。
リニューアル 高層化なった都営住宅の佇まい
むかしの建物と違い集約化、近代化されて若者の入居が眩しい。
保育園も併設されて子らの声がマンションに響き渡る。
空地は高層マンション予定地
手前4階建ては取り壊しが予定されている建物、 奥は高層化された建物
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取り壊しを待つ旧高砂4階建て団地の建物
区役所出張所、郵便局も有りましたが 撤去された給水塔跡地 取り壊しを待つ
現在はその影すら見えない。 空き家の旧4階建。
団地が急速に普及した当時の流行り言葉
団地族
団地族とは、『国民生活白書』によると「世帯主の年齢が若く、小家族で共稼ぎの世帯もかなりあり、年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業や公官庁に勤めるインテリ、サラリーマン」とされている。
生活合理化への意識の高さから、パン食・イスに代表される洋式の生活や「三種の神器」(テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫)に代表される電化製品・耐久消費財が、一般に比べいち早く普及していた。
1958年頃から団地族という名がジャーナリズムでさかんに使われるようになり、世間の羨望を集めた。
「ダンチ族」という言葉が初めて使われたのは『週刊朝日』の記事でした。
団地妻
有閑マダムの一種。各住戸が鉄扉(玄関ドア)一枚で仕切られるようになり、隣戸間(りんこかん)の相互干渉が減少し、発生したとされる。複数の映画シリーズ、小説が生まれた。 よろめき有閑マダムなる言葉も。
優先権(公団住宅申し込み&競争率)
田舎から転入した人にとっては、何としても家が欲しかった。
住宅公団が建設する団地の募集が始まると、職場で先輩たちがA団地、B団地、C団地の応募用紙を持ってきて一心に申し込んだ。申し込み回数を重ねると、優先権が与えられた。
それほど公団住宅に対して所帯を持つ人には羨望のまなざしでした。
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時代を振り返りながら、綴りました。