江戸川を通運丸が航行していた
≪長文です、関東地方の方なら地理的に、
理解できるかと思いますが地方の方は理解しがたい。
興味のある方はお読みください≫
東京オリンピック以後(昭和40~43)の頃だったと思う。
古老から、江戸川を「ポンポン船が航行していた」という話を聞いた。
それ以来、話は途絶えていた。所用で江戸川区郷土資料室に行った時のことでした。
展示室を覗くと意外にも舟を発見、胸がときめいた。
古老が話してくれた、『ポンポン船通運丸』ではないか!!
食い入るように見入った。
そして展示室を出て係員に尋ねると
≪江戸川区文化財保護条例施行10周年特別展≫
『通運丸と江戸川の水運」
1990,10,2~11,25開催展示
江戸川区郷土資料館
通運丸の話をしてくれた。
そして、およそ20頁の特別展の冊子を買い求めた。
○ 浦安郷土博物館
○ 物流博物館(日通資料館)
と、詳細に丁寧に教えられた。機会を見て行ってみよう。
↑ 3枚・復元模型した舟が展示されていた。
江戸川区郷土資料館
◎ 江戸川の水運
江戸時代は、都市と農村との間の物資の運行が盛んになり、
内陸部では牛馬背による陸上輸送に比べ、大量の物資を早く輸送することが
可能な河川水運が全国的に発達した。
江戸の中頃から、仙台方面から房州を迂回し、東京湾から江戸に入る航路は
太平洋の荒波で、距離が長いため危険が多く、
銚子で川船に積み替えて、関宿を経て、江戸に入りました。
(徳川家康は、利根運河を掘削する)
赤の➡ 江戸時代の物流経路
≪利根運河の掘削=利根川➡江戸川≫
利根運河の掘削により、距離が短くなり、
外海の危険航海がなくなり安全航行が増しました。
利根川~江戸川(運河)まで、約8km。
◎ 河 岸
陸上運輸が≪宿駅≫を中継地点都市や輸送拠点としたように、
河川では、≪河岸≫が船運の拠点となりました。
「川の港」として、人々の集落をも含めて、
後背に荷物を扱う問屋、輸送に携わる人々の出入りで繁栄した。
◎ 荷物の中身
河岸を通る荷物は、その立地条件により異なった。
奥州街道を控える≪境河岸≫には、近隣の荷物だけでなく、
北関東各地や、白川・会津・仙台・山形方面から荷物が集まった。
中山道に接する≪倉賀野河岸≫には、高崎・前橋付近から、遠くは佐久
・木曽・越後からも集まった。
其の中身は多義にわたり、酒・味噌・醤油・薪炭・穀類・海産物
・材木・など至るものが運ばれた。
その荷物の中心は年貢米や廻米(かいまい=金銭に変える大量の米)でした。
◎船運の復活を願って常夜灯の設置
江戸川堤に上がると、彼方に「常夜灯」が見える。
かつて、「通運丸」という客船が就航していた、舟運復活を願って
常夜灯(松戸市江戸川土手)を設置した。
松戸ライオンズクラブ
隅田川両国付近、通運丸で活況を呈した。
先般見学し栃木市内・蔵の街を歩いた時、
何故ここにこのような立派な街が川筋に拓けたか?
江戸へ通じる巴波川の舟運の要所の河岸として栄えたことが分かった。
日光地方は、材木が豊富で、大量の木材が江戸に運ばれ
深川の貯木場に保管された。
他にも多くの物資が運ばれた。
◎タイトルに「日本通運」を掲げた理由
外輪蒸気船が、利根川・江戸川を就航していた。
内国通運会社は
江戸時代以来の飛脚問屋が集まって明治5年(1872)に設立した運輸会社で、
今の日本通運㈱の前身に当たります。
『通運丸と江戸川の水運」資料に、に記してあった。