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葛飾柴又の文化的な景観   チャプター❹

2017年09月16日 | 紀  郷土博物館 葛探団

 

大正・昭和期の柴又用水跡を歩く
(葛飾探検団・記録用 )

 

=柴又用水のもう1つの水源 、新八用水路=


             大木が生い茂るところが、新八用水路です。
駐車場、サッカー野球場があり日曜日とあって多くの観光客が訪れて居た。


           水路口は雑草で被われてわからなかった。


           河川敷に水路約70~80mが続く、江戸川の河川に行く葛飾探検団


         新八用水路(江戸川の取水路)を見学する団員。


           遠くに矢切の渡しの渡舟が見える。

◎ この付近の江戸川は、干潮時には、素足で対岸へ歩いて渡った場所だと言います(金町に長年住む古老談)
  南葛時代の古い地図を見ると、川が二叉に別れ陸の孤島があったことが地図上で明確になった。
  金町の古老談を裏付けることになります。
◎ この僅か上流が『矢切の渡し』です。細川たかしのヒット曲は、ここから生まれた。
◎ 日曜日で、お客さんが渡船で楽しむ様子が、木陰から望見できた。 

  ←クリック拡大
東京府南葛郡地図
江戸川に孤島があり
浅瀬であったコトが良く解る

「参考」
矢切の渡し付近は「からめきの瀬」と呼ばれていた。これは浅くて攻めやすいと言う意味で、「カラめての瀬」が変化したものと言われている。

2度にわたって国府台合戦が行われたが、この辺一帯が戦場として、葛西城に陣を取った、後北条死と里見城に陣を取った里見氏の間に江戸川を挟んで1万人の人々が命を落としたと言われている。

長閑に行き交渡しを見ているとそんなことは微塵も考えられない。

 

以下文献による。
    ↓

「大正・昭和における柴又用水における
利用と維持管理の変遷」
  山科 盛人  福井 恒明    (引用)

住民の方々からのヒヤリングにより、次の情報を得た。

新八水路
↑ 火災保険図、図-15にて確認できる、江戸川と接続している水路を≪新八水路≫と呼ばれていた。
水路脇には、「新八酒屋」があったことから由来すると言う。
新八水路を介して、柴又用水への水の管理を行っていたのが、「圦番屋」(入番屋)である。
江戸川の潮の満ち干は、春先の雪溶けや台風により水位が変わる。水路に設けた堰枠への堰板の出し入れによって、水利が上がった時取水し、水位が下がった時閉じる操作を行った。
しかし、江戸川河川改修や上流の取水によって水位の低下によりこれが不可能となった。
そのために足踏み水車を使い、人力によって取水を行った。足踏み水車は、3段階繋げて取水する必要があった。1段階に3台づつ、計9台の足踏み水車が並んだと言う。足踏みの労働は、住民が交代で行い、交替時間の計測は、線香を用いて、燃え尽きるまでを交代目安とした。
 昭和に入り水車に代わって、クボタ発動機〈1922年生産開始〉を用いて取水(揚水)が行われた。この発動機が故障すると、修理するものがおらず、クボタ本社の京橋までの1日がかりで修理に行った。
昭和10年ころになると、電線を引きモーターを導入して水をくみ上げた。コンクリート基盤(120cm×120cm程度)が江戸川河川敷に1基残存し、水位低下時には確認できると言う。

 

 


             江戸川河川敷に、コスモスが咲いていた。


             柴又の土手から眺めた山本亭

  

葛飾探検団は、歩いて現場実査し、自ら学び、発表し、皆さんが学んだことを共有し、記録に留めて後世への資料とします。今回は「柴又の文化的景観」ということで柴又帝釈天を中心として3部門に分かれて見て回りました。次会それぞれ感じたこと、思わぬ発見があり、その内容を皆さんとで語られることでしょう。

 

            次回は金町浄水場の記事を掲載します。

                                     コメ欄は閉めています。 

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葛飾柴又の文化的な景観  チャプター❸

2017年09月16日 | 紀  郷土博物館 葛探団

大正・昭和期の柴又用水跡を歩く
(葛飾探検隊・記録用 )

 

 

     
葛飾探検団のサークルの旗                                葛飾柴又、寅さんの故郷
                                   柴又駅前で


葛飾探検団の皆さんが三々五々集合、9,30分。


最初に訪れた柴又ホームの隠れたる部分です。チョイとは行った横丁から覗く。
その昔は、柴又駅の下を、「柴又用水」が、通水していた。
この付近には鷺沼が存在したと言う。


なぜ柴又駅の見知らるところにマンホール。
柴又用水はどぶ用水となり、時代とともに下水管が敷き設され、街の美化が始まる。


今も残る柴又用水跡(下水道管が敷き設)


柴又街道を渡り、江戸川土手方向に進む。
「しばまたこばし」付近から右に分水して、”さくら道”方向に流れたと言う。
そう言われて見ますと、道路がどこまでも直線で続く。
地図を見ると用水路は網の目のように張り巡らされていた。


オットット、家庭菜園ならぬ、冬瓜が都会の真ん中にぶら下がる!!


直線道路、柴又用水分水路跡を行く


”柴又小学校西“野交差点に『堰』があり無駄な水が流れないように、
板で堰を作り分配したとの事です。


赤字で”堰”が記入してあります。
黄色い円内を歩きました。

 


道を左に折れて、柴又街道に出る。

 


新柴又駅に近い、日蓮宗寺院の題経寺【↑2枚】


寅さん会館にて小休止,30分。
会館内では、サイクルショップ・バザーが行われていた。

 

 

次回は新八用水路に向かいます

コメ欄は閉めています。

 

 

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葛飾柴又の文化的な景観   チャプター❷

2017年09月16日 | 紀  郷土博物館 葛探団

大正・昭和期の柴又用水を歩く
(葛飾探検団記録用 )

 

柴又地域の文化的景観を保存するための
基本的な方針「葛飾柴又の文化的景観保存計画」が取りまとめられました 

その趣旨は次のようなものです。


 

 

 

                 ( 調査報告書の概説部分をお借りしました。)

 

 葛飾区 寅さんの舞台柴又を国の重要文化的景観に | NHK

 

◎ 葛飾探検団との係わり合い。

 

クリック拡大

探検団は、郷土と天文博物館内のボランティヤ組織です。
葛飾区では、一大イベントとして「柴又の文化的景観」に取り組んでいます。
そこで少しでもこの行事の側面から応援し、ボランティヤとしてお手伝いが出来ればと、
柴又地区の文化的景観を歩いています。
川・道・路傍の碑、寺社などを訪ねながら、葛飾の暮らしや文化がどう変わったかを調査・記録します。
調査研究や展示などの博物館活動に参加しながら郷土の歴史を学ぶボランティヤです。

 

 

ワーキング部門(前回班編成)

◎ 大都市近郊の低地開発の歴史を伝える空間(柴又用水路)

に専従して調べることは前会合で決まった。
本日は、ワーキング部門の活動日です。

 

 
集まった葛飾探検団の面々


江戸川河川敷、新八水路の見分に向かう

 

 歩いたコースやその個所の活動経過を、次回に掲載します。

 

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葛飾柴又の文化的な景観   チャプター❶

2017年09月16日 | 紀  郷土博物館 葛探団

大正・昭和期の柴又用水跡を歩く
(葛飾探検団・記録用 )

 

クリック拡大

葛飾探検団に参加し「柴ぶら」に参加し、
「知られざる歴史、柴又の文化的魅力」の大要が解るようになった。

8月20(日)郷土と天文博物館にて、
この調査に専門的分野で関わった(基礎調査)東大教授の花田先生の講演と
これに伴うデスカッション、(質問)が催うされた。

この時に、「ワーキング・グループに分けて調査方向の検証」がなされた。
そして、3部門のワーキンググループに班分けされあた。
3ヶ班に分けた。

 その3つの班とは

1、帝釈天読経寺及び門前からなる空間。、

①    帝釈天読経
②    帝釈天門前

2、帝釈天読経寺と門前と係わった農村部の空間

①    国分道添い
                   ②    帝釈天南方・江戸川河川敷

3、大都市近郊の低地開発の歴史を伝える空間(柴又用水路)

①    柴又用水域
      ②    金町浄水場付近
     ③    江戸川・河川敷                    

このワーキンググループの班に分けて、

3、大都市近郊の低地開発の歴史柴又用水路・・・・・の部門を選択した。


 



暇に任せて、8月23((水)に下見方々現場実査した。

実査の結果

 

柴又用水の実査に当たって

この時の重点項目

1、小岩用水と柴又用水の分岐点  
2、江戸川への排水路と新八用水路(江戸川からポンプにて揚水していた
3、金町浄水場からの放水 (金町浄水場は、江戸川を源水とする浄水場として、稼働開始。
     余った水を浄水場から、下水路に放流していた)

 

実査の概要 

① 柴又八幡神社境内の柴又用水の碑。

天保6年(1835年)、鈴木幸七の手によって用水路が引かれ、水利用に悩んでいた
柴又の地を救いました。

 

これは鈴木幸七に対する顕彰碑です。
葛飾区登録有形文化財
 柴又用水の碑
     平成2年(1990)3月19日登録

 根府川遺志の不整形板石碑で、明治6年(1873)銘の訓導(旧制小学校教員)橘田春湖による名文が刻まれています。、
 銘文によると柴又は土地がやや高く、昔から水の利用に苦労が絶えませんでしたが、天保6年(1835)に鈴木幸七の手によって用水路が引かれ、窮状が克服されたことがわかります。さらにこの事業の結果、堤防も堅固にされ、洪水も防がれました。
 この碑は鈴木幸七にたいする顕彰碑であると同時に、明治初年(1868)における当地域の農工水利開発の由来を示す点でも注目すべき記念碑です。
 東京都葛飾区教育委員会

②、小岩用水と柴又用水の分岐点付近

   

葛飾区新宿交通公園前にて

③ 柴又用水分岐点

 

 

  ←        クリック拡大       →             
小岩用水から柴又用水へ             現在は一方通行路歩道です
 下水道普及によって58年に埋め立てられた


④、柴又用水で、唯一水が流れている場所
 

     クリック拡大         
京成柴又駅前の帝釈橋。                 柴又水路の面影 
                           
この場所だけが、水路となって水が流れて柴又用水の面影を残す。


⑤、 柴又街道を渡ります

 

    ←クリク拡大               

柴又用水道標                  しばまたごはし跡

  ←クリック拡大    

いぬまはし跡                 此処から裏道らしく細くなる

 

  ←クリック拡大        

 用水案内道標と??                でどはし(出土橋)

 

付近の案内板

 

⑥、排水ポンプ所の建物が残る


排水ポンプ場の全景

      

    江戸川に通じる導水管か?今も残る。           裏から見た建物

 

⑦ 反省と実査できなかった場所

                A  江戸川から揚水していた、新八用水路は発見に至らなかった。
                       B 金町浄水場からの放水は、近くの古老に話を聴いたがよく解らなかった。
                                  未解決に終わった。

      次回9月10日(日曜日)の葛飾探検団が実査するときに入念に調べたい。

 

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