みんな愉しければ、心和めば~ それでいい・・・
五 行 歌
コメ欄は締めています。
旧宇田川支流 初台橋欄干跡(昭和34年竣工)
昭和三四年当時初台橋が輝いていた頃は、
社会はこんな時代でした。そんな目線で橋を眺めて見た。
■伊勢湾台風(死者5041人、被害家屋57万戸)
■第1回日本レコード大賞(水原弘の「黒い花びら」)
■児島明子がミス・ユニバースに選ばれる
■皇太子結婚、パレードをテレビ中継
目線をアナログ化すると、初台付近の農村風景が蘇え見えてくる。
大正時代末頃まで、流域一帯には「初台たんぼ」と呼ばれる谷底の水田地帯が、
現代々木八幡駅付近まで続いていました。
その頃の川は、河骨川と同様、いくつかの流路に分かれて流れていました。
むかしの初台橋近辺の川の流れ。
Fリーダーの説明風景。遺跡の橋の欄干。
暗渠はほぼ直線を描いており、下流に向かう程太くなっています
大正時代末頃まで、流域一帯には谷底の水田地帯が、現代々木八幡駅付近まで続いていました。
その頃の川は、河骨川と同様、いくつかの流路に分かれて流れていました。
現在の風景からは想像がつきませんが、写真の暗渠の両側、塀があって家が建っているところも一面の水田だったのです。
昭和の初めには、それらの水田は区画整理され、やがて宅地化していきます。
川もその際に一本にまとめられ、まっすぐになりました。
マンホールがあります。橋に穴を開けて作ったものです。
昭和34年九月竣工の銘板。
初台橋」の銘板
欄干の端には「初台橋」と書かれた銘板が嵌めこまれています。
そして、側面には昭和34年9月竣工、と記された銘板が埋め込まれています。
川が暗渠化されたのは1960年代後半なので、
橋が実際に機能したのは10年ちょっとだけだったのでしょう。
昭和34年橋竣工と記してある。
きっとこの頃に橋の上に立てば、見事な稲穂が田んぼに実り、
農村風景を演出していたことでしょう。
初台橋 ・ 上流から下流を見る
暗渠を下って行くと、山手通りに出る手前の地点に、橋がそのまま残っています。
「初台橋」です。渋谷川水系の暗渠では唯一、欄干が完全な形で残っている、貴重な遺構です。
暗渠があることを示すマンホール。
初台橋欄干跡付近を散策して見た風景
代々木八幡宮とフジの会会員
↑ 地図に戻って俯瞰してみると、八幡宮神社は高台で四方八方を見渡すことが出来、
田園風景が手に取るように分かったであろう、そんな想像を膨らますと街歩きが楽しい。
初台駅前商店街。奥には高層ビルが見えます。
↑ 上手の地図参照。初台駅方向、玉川上水旧水路に向かいます。
代々木八幡宮付近の高速道路排気口
山手通り地下には高速道路が通っています。
此処天空にそびえる排気口が立つ付近は大小河川の集結地で
支流を集めて太い川となって、代々木八幡駅方向に流れを変えて行った。
付録
合流した川はあちこちの水域を集めて、
渋谷川となり渋谷駅付近を流れ、やがては東京湾に注ぐ。
いま渋谷が大変貌しつつあります。
複合施設「渋谷ストリーム」などの誕生で、おそらく渋谷駅周辺の
渋谷川は暗渠化されることは、必然の事実でありましょう。
東京の川は地下に潜る!!
https://blog.goo.ne.jp/tsyouji5243_001/e/7d09bc3d82590dfa8311ef3fd9941c0e
*東京の水 2005 Revisited
2015 Remaster Edition を参考にさせて貰いました。
コメ欄は締めています
中川 高砂橋下流で、新中川としての放水路
通水記念公園記念碑
今回の舞台は葛飾区奥戸三角公園。
奥戸とは、京成線の青砥駅から南へ中川を渡った先。もしくは、総武線新小岩駅の北東。
…何の変哲もない住宅街に、旧・新河川分岐点。
この付近は、長距離の散歩コースとして良く立ち寄る場所です。
新中川の記念碑から、中川その周辺を知ることが出来ます。
新中川通水記念公園の全体
新中川通水記念公園 記念碑
新中川放水路の工事の竣工までの概略
工事のあらまし
この付近は、以前からしばしば被害に遭い、これに伴い河川工事に取りかかっていた。
しかし戦争やら幾多の困難によって工事が中断されていた。
その後、昭和22年カスリン台風により住民は、大きな被害に遭いました。
この被害後、早急に工事再開の声が持ち上がり、再開され、昭和38年3月竣工に至った。
三角公園からの高砂橋の眺め
通称三角公園は魚釣りのメッカの場所でも在ります。
旧・新中川の合流点なので多くの魚が行き来して集まるのでしょう。
又周囲には、7~8本の桜もあり、春先の花見にも絶好である。
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