環状7号線脇の「水神社」検証
近くに水神社が2つある!どうして2つある事由?
昔の農村風景まで発想を飛ばした
この水神社の場所は下の地図によって確認ください。
この水神社と並びて忘れてはならないのが、総合スポーツセンター東にある奥戸水神社 です。
奥戸水神社(奥戸2丁目)
水神社が建てられた年代はわかりませんが、今から約190年前、江戸時代の終わりの書物に紹介されています。もともとは、本奥戸橋の上流100メートル辺りにありましたが、1922(大正11)年、中川の土手の工事のため現在の場所に移りました。昔は農家の人たちによって盛大に祭りが行われていたそうです。舟をもっている人は、舟の上で飲み食いをしたといわれています。
川は米や野菜を育てる水を得るため、また野菜や肥料を運ぶために重要でしたが、氾らんして被害をもたらすこともありました。このため地域の人びとは、水に対する特別な感情をこめて水の神様をおまつりしました。また、奥戸の水神社は女性の神様であるため、無事に子どもを産み育てることができるようにお願いする人たちもいました。(葛飾史から)
こちらは、社も広く、石碑がはっきりしていてその歴史を伺い知ることができます。
凡そ、500Mの至近距離になぜ同じ類の祠があるか…?ということです。
そこで奥戸という地名を紐解くと、この水神社が2つが近くに鎮座している事由がおおよそ理解できます。
奥戸という場所は水田地帯でした。
奥戸(おくど): 東京都葛飾区奥戸
中川下流の低湿地帯に位置する。奥戸は奥津が転訛したものとする説がある。
「津」は港津、渡し場を意味するもので、この地は中世利根川沿岸にあたりります。
葛飾低地には「奥戸」のほかに青戸、今戸、亀戸などがあります。
石碑がありますが読み取ることは不可能です。
この石碑のみが年数を経ているが他は新しいので旧石碑!?
この石碑は新しい。
従って八剱神社 にあったものを分社してここに祀ったか?
宮司・三田錦一郎は八剱神社の宮司である。
中川、奥戸橋の下流。
奥戸地域はこの河川で囲まれています。
「水神社の歴史についての考察」
環状7号線の整備・竣工状況を調べると、 【東京オリンピック後の供用開始となった。
1985年1月、残案件となっていた葛飾区青戸八丁目から奥戸陸橋までの区間が供用開始されたことで、
当初構想から58年後に全線開通となった(京成本線との立体交差の関係で工期が延びたことによる)】
の記述がみられます。
此処奥戸地区は、中川放水路掘削工事等に伴い大きく変貌、そこに環状7号線が東西に
貫通する大工事、此処「水神社」もその変遷は大きく変化したのでしょう。
昭和57年7月という文字が石碑に刻まれていますが、環七道路完成時期と一致します。
したがってこの工事に伴い移設されてきたことが、古い石碑、新しい脊柱から伺いすることができます。
八剱神社崇会成る文字が関中に刻まれていた。
葛飾区水神社付近、昔の農村風景
「暮らしの移り変わり」から、葛飾区史より
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