終戦忌国民学校1年生
あの日あの時の想い(過ぎ去れば懐かしく、また酸っぱくも)を、綴ってみました
終戦記念日
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敗戦忌/終戦の日/敗戦の日/八月十五日 |
八月十五日。昭和二十年のこの日、日本はポツダム宣言を受諾し て第二次世界大戦は終了した。戦争の誤ちを反省し、平和の希求 を確認する日。各地で戦没者を追悼する催しが行われる。 |
真夏の昼、日本が戦争に負けたと知っつたのは国民学校(小学校)1年生だった。
1945年8月15日の“玉音”放送です。あれから76年が経ちますした。
当時、我が家は母子家庭で祖母・母・兄・姉そして私の5人家族でした。朝から母はそわそわしていた。
天皇陛下の放送があるというので・・・、我が家にはラジオはなかった。
そこで隣家のTさんの家に聞きに出かけた。しばらくして母が顔を下に向いたまま元気なく帰り、
涙声で一言「日本は負けた」と呟いた。
この時は小学1年生で、内容はよくわからず、母の涙顔であったことは鮮明に覚えています。
8月15日は朝から暑い日で、畑にはトウモロコシ、庭には百日紅が咲いていた。
その後、B29による空の旋回や飛行機雲の航跡は見られなくなった。
いろいろな情報が乱れ飛び、秩父の田舎にも、進駐軍が来て「女子供を攫って行く・・・」
などのデマが流れた。この他にも沢山あり子供心に聞き伝えで覚えています。
一人々が身にしみて覚えている「あの戦争」を、文字にして残し後世に伝える文章を、
終戦忌の度に思うが、その実現に至っていない。
家族や友人、隣人たちとの間で起きた思い起こさずにはいられない人情の機微や
琴線にふれるような事柄も多々あるのでですが・・・・。
私はこの終戦忌を、拙い5・7・5を詠んでみました。
終戦忌5・7・5
ブロ友の「比企の丘」が詠んだ句です。
参考俳句
コメ欄はopenです。
お早うございます。
コメ有難うございます。
≫≫ 敗戦忌 「日本は負けた」母なみだが一番グッときます。
8/15になると必ずこの涙は、我の人生で話題になります。父は(亡)で母親に育てられ、貧しい戦後を育ちました。
今で思うと戦争と言う事象はとんでもないこと、モウモウたくさんです。
コメント遅くにごめんんさい。
敗戦忌 「日本は負けた」母なみだ
が一番グッときます。
やっと歩き始めたくらいで 戦争のころは知らないのですが
同級生に必ず 父親の顔を知らない子がいて なんともいえぬ
気持ちになったものです。
自分の息子が戦争に行かなくて済んでいる今の世、
母親としてはありがたい世の中と思っています。
その時代、衣料切符、食料切符、配給制度…成るものがありました。
都会の人たちが、着物を背中に掛けて、お米と取り換え(交換)て下さい、食べるものが無いのです。・・・・と、農家を回り歩いたお母さんたちの姿、つい先日の様に思い出されます。
多少なりとのお米を仕入れて自宅へ運ぼうと帰路に、すると町の出はずれに警察の検問所、物価統制令にて取り上げられる・・・・・こんな話がいっぱいありました。
また、東京の人が焼きだされて、農家の物置に間借り・・・・話は尽きることなし。
「非業の死」・・・逆縁といって兄が戦死、その兄嫁を奥さんに、こんなケースが山ほども。
▼ 戦争を語るもよいが大過なく
暮らす幸せ「先ずは健康」 (縄)
歳重ね、健康に留意ください。…
、
okoさんの、武道館全国戦没者追悼式じっくり読ませてもらいました。
時代は移り76年、↑のmomomamaさんのところで書きましたが…受け止め方は、自由裁量、
武道館での放送の時NHKアナが、「76年の月日はあまりにも大きく、遺族の方が少なくなりました」と放送していました。
と・・・・申しますのは、
▼ 行く末や案じつつもの大過なく
暮らす幸せ「先ずは健康」 (縄)
先ずは、「健康」の心境です。
世の中は、お互い持ちつ持たれつ、元気に行きましょう。
、
2021-1945=76年
この過ぎ去ったことについて、いろいろ考えさせられました。
「終戦」と言っても、その後に生まれた方は、単に歴史的事実としてとらえるだけで・・・・、その事実をいかに受け止めるかは、その人の自由裁量。
玉音放送、一億玉砕、負けられません勝つまでは、・・・など等戦争を鼓舞する言葉がありますが、時代と共に消滅、価値は封印。
軍国教育の威力・・・・国を動かしたのですから大変なものでした。
≫≫名前には 【勝】が ついたり 【和】がついたり・・。
仰る通りですね。
「歌は世につれ世は歌につれ・・・」名前も戦勝にまつわるものが多かったのでしょう。
▼ 十五日雨のひまわり首垂れて (縄)
、
縄文人さんの献句は、わたくしの体験そのものです。
母と聞いた玉音放送・・・きのうのことのようです。
自分を育ててくれた小学校に未亡人が抱いた骨箱が別れの挨拶に・・・「非業の死」とは天寿を全うしない死のこと。
竹槍、藁人形、芋飯、芋蔓・・・みんな知ってます。
大勢の人に読んでもらいました。
ありがとうございました。
、
立派なお兄様(1歳上)の素晴らしい編集に多くを学ばせて頂き
いつも感謝を申し上げております。
素晴らしいお歌もしみじみと拝聴させて頂きました。
今後ともご指導の程どうぞ宜しくお願い申し上げます。
有り難うございました。
翌21年3月生まれ
20年4月から 21年3月まで の同級生。
だから 名前には 【勝】が ついたり 【和】がついたり・・
平和君もいました。そのままへいわ君 です。
わが町では 例年の今日 戦没者慰霊塔の前で はねそ盆踊り大会がありますが
コロナ禍で 中止です。
お早うございます。
中国地方はことのほか線状降雨帯で大雨の様ですがいかがですか!?あちこちに被害が出ていますが早く雨雲が立ちさってもらいたいものです。
とんちゃんとは戦争の話になりますと、父親のことで話が盛り上がります。
≫≫残された手紙(父と母の)を時々出しては読んでいます。
小生状況に手はそれらしきものはなく、故郷も兄は亡く「故郷は遠くになりし思うのみ・・・・」になりました。
我も高齢これからは家族の健康、そしてわが身の健康に気を付け、残された日々を幸せに過ごすことが良き人生でありましょう。
とんちゃんも「健康に留意し」お暮しください。
▼ 行く末を細やかなりし大過なく
暮らす幸せ「先ずは健康」 (縄)
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ドンコさんとは同年配、記憶はそれなりにおぼろげながら、それに肉を着けながら来ましたので存じています。
76年の月日、戦後はいろいろありました。
でも、こうして生き延び今、幸せの毎日送れること皆さんや、親に感謝です。
そうでした、今でこそ玉音放送は戦争終結ですが、何のことやら皆目わからなく、朝から暑い日、親が一言「日本は負けた」の涙顔だけは鮮明に、覚えています。
これからは残された月日、わが身の健康と毎日ささやかな幸せ家族の健康を送れることを祈り、「祈る平和」を求めささやかに頑張っていきたいと思います。
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お早うございます。
終戦日は朝から暑い日でしたが、今年はことのほか大雨、各地に被害があり思いやられます。
月日の流れるのは早く、半世紀以上よく平和が続きました。戦争入りません何時までも「祈る・平和」です。
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父が出生時、母のお腹に宿ったばかり「俺に似た女の子だと困るなぁ~」と言っていたとか・・・
父親の顔を知らない私を不憫に思った周りの人から可愛がられ、大切に育てられました。
10年前に母が亡くなって、残された手紙(父と母の)を時々出しては読んでいます。
今年94歳と92歳の叔母が、父の事、色々話してくれます。
何時までも25歳の若い父の写真に「お父さんの3倍も生きたよ!」と話しかけています。
ヒキノさんの「終戦5句」を転載させてもらいました。
にぎやかになり内容も光り輝いています。
▼ 終戦日国民学校1年生 (縄)
でしたから難しいことはわかりませんが、終戦日、その後の貧しさに耐えた生活は、それなりに覚えています。
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◎ パンパン」という言葉をご存じでしたか…。
現在ではほとんど死語だが、戦後の日本に広まった俗語で、田村泰次郎の小説『肉体の門』にも登場した。「パンパンガール」とも「パン助」とも呼ばれたが、主に「米兵の袖を引く街娼」という意味が込められていたのでしょう。
◎ ひまし油は、そのころゼロ戦飛行機の油(燃料になる)と、学校の校庭の隅、道路の空き地に「空地利用」として作付けをした。大豆なども作付けした。
◎ 校庭にすり鉢状の運動場がありました。校庭は作物を作りどんどん狭くなった。そんな関係ですり鉢状の穴を掘り円形状にぐるぐると周回する駆け足して体を鍛えた。スリ鉢は直径20mほどで深いから雨が降ると水がたまった。水を汲みだすのも運動だと・・・・。
◎そのほかにも今では考えられないようなものもありました。
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家にはラジオがありましたが
この日は自転車屋の同級生と遊んでいました。
親父さんが「今から大事な天皇陛下のお話があるからちゃんと聞け」と神妙な声で言われました。
例のあの放送を聞きましたが、意味は全く分かりませんでした。
「戦争に負けてしまったつバイ」と親父さんが涙を流していました。
呆然としたことを覚えています。
戦争が終わって76年経つのですね。
戦争の事は、テレビや聞いたことでしか分からいですが、大変な時代でしたね。
月日の流れるのは、過ぎてしまえば早いですが、一生忘れない出来事でしょうね。
平和で安らかな時代が続いて欲しいです。
縄文さんの献句を今年もまた私のブログに載せさせていただきました。
昭和20年生まれの私、進駐軍が奈良に滞在したのか覚えていませんが、綺麗な服を着た同年代の少女を奈良公園で何度も見ました。食糧難は後日聞いただけですが、貧しかったのは記憶にあります。父母が必死に働いたことも覚えています。パンパンと呼ばれていた派手な衣装の女性たち、奈良でも大勢見かけました。
精神論で勝てる筈もなく、無益と分かった時点でも、降伏しなかったのですね。
ひまし油は下剤と覚えています。ヒマは小さいころに見かけましたが、それ以後は出会うことはありません。絶対に戦争はダメです。