「終戦」~その当時を回顧
8月15日は79回目の終戦記念日です。
2024年8月15日は79回目の終戦記念日です。
先の大戦の全戦没者に対し、国を挙げて追悼の誠をささげるため、政府主催の下に、令和6年8月15日、日本武道館で全国戦没者追悼式が行われます。
筆者は当時、国民学校2年であった。昭和12年生まれ、現在86歳の高齢となった。戦後78回目「終戦の日」が過ぎ去るに、おぼろげながら当時を振り返って見た。
全国戦没者追悼式が日本武道館で、8月15日(終戦記念日)が行われるを機会に・・・。
国民学校2年生なので、記憶は定かでありませんが・・・・・・。
国民学校では、校門に上級生の国防服を着た門番が立番して生徒を迎い入れた。校庭の片隅に藁人形、そして奉安殿が有り、朝礼の時に使用する箱入りが保管されていた。校庭での野菜(大豆)作り食糧増産など今では考えられない庭の一部を開拓し食糧増産(精神の植え込み)に励んだ。
当時を振り返り、筆者の脳裏を整理する意味からその当時を項目別に分けて、振り返って見ました。
奉安殿 国語教科書
1,藁人形と竹やり
「欲しがりません勝つまでは」「全てを戦争へ」など国民のすべて、そしてその影響は、学校教育に及んでいた。
校庭の広場の片隅に藁人形が凛々しく立っていた。頭.胴、足の部分を藁で作られていた。そして青い竹ヤリが校舎の廊下の片隅に纏めて置いてあった。訓練を見たことはなかったが、1億総決起の基に竹やりで藁人形に突進したのだと終戦直後聞いたことが有る。
藁人形と竹ヤリ
2,玉音放送と母
「百日紅と玉音放送」
終戦という日が今年も近づいてきた。
このピンクの花(さるすべり)が、何処に咲いていても
母の涙を強烈にイメージする。
我が家は、祖母、母、子供3人でラジオなど無かった。
朝から何やらざわめいていた。
天皇陛下のお言葉があるというので、裏の家に三々五々集まって聴いた。
炎天下ジリジリと照りつける暑いお昼ごろだった。
母親が涙をつるして帰ってきた。
≪日本は負けた≫と・・・ただ一言。
近くには、赤いサルスベリキョウチクトウの花が咲いていた。
玉音放送と聞き皇居前に集まった人々
3,校長先生の朝礼と日の丸弁当
朝礼は校庭で、週に一回か2回有った。校長先生が木製の朝礼台に登り全校生徒に向けて訓話するであった。
最初には、教頭先生がが奉安殿から袱紗に包まれた巻紙の教育勅語を取り出し、黒い盆でりりしく運ぶ。壇上で受け取った校長が厳かに読み上げた。
「朕惟(ちんおも)ふに…」
生徒らは「少国民」は一斉に深々と頭を垂れた。「当時はその行為に、何の疑問も持たなかった」。毎日の朝礼では、皇居の方角に向かって最敬礼した。「どうしてそうするのかを考えさせない教育。一方通行の教えが当たり前だった」
教育勅語
◎ 日の丸弁当
日の丸弁当(ひのまるべんとう)は、日本の弁当の一つ。
弁当箱に詰めた飯の中央に副食として梅干し1個だけを乗せたもので、日本の国旗(日の丸)のデザインのです。
特に戦時中、興亜奉公日(毎月1日)の食事に奨励されたことで知られており、戦時中の代表的な食べ物の一つとも考えられている
校長先生いわく「ご飯は噛めば噛むほど味が出てきます。ご飯を口の中に入れたら少なくても5回咀嚼してよく噛むことです。よく噛むとご飯が甘みが増してきます。そして梅干しの実を解す様にして食べるのです。此の話を校長先生から朝礼台の上から言われたことを鮮明に覚えています。
梅干しを真ん中に入れたので弁当箱の真ん中が塩分で腐食した。
アルミの日の丸弁当 朝礼
4、あとがき
ざっと回顧し振り返って見るとこんなことであろう・・・他にも未だ沢山書きたいことは有りますが、紙面の都合でこの位として止めます。
(当時の記憶のおぼろげながら浮かぶ、微かな浮き草を頼りに、まとめたものです。戦争は人格を変貌させる。世界ではあちこちで・・・また中東ではイランが新たな火種、「敵討ちと・・・」日本よ有難う!!This peace, forever)
『昭和は遠くなりにけり!!』
私の脳裏にかすかに残る記憶と、
次の本を参考に纏めました。
本棚から取り出した、我が世代の本
コメント欄は OPENです。
映像や話を聴く程度でしか知りません。
「天皇陛下・・・」と発せられる度に
児童生徒は(当時は高等科、一緒でした)、ピシャッと「気をつけ」の姿勢を取らねばなりませんでした。
私の近くの上級生が蜂が飛んできたのか、「気をつけ」をせずに追い払おうとしたら
男の先生が走り寄ってきて、何発も何発も顔を拳で殴りつけていました。
あの時の複雑な思い、今も忘れられません。イヤな時代でした。
教育勅語、歴代の天皇の名前---、幼いころに母がそらんじていたのを覚えています。覚えさせられたのでしょう。
さっと勝って終戦にしたかったのかもしれませんが、資源差が雲泥の差では、天秤にかけるまでも無かったでしょう。判断が出来なかったのも、曇った眼しか持たなかったからですね。
負けて良かった、まだまだ男尊女卑の社会ではありますが---。
終戦当時は1歳9ヵ月でしたので、玉音放送についてはまったく引っ掛かりがありません。
戦時下の苦しい生活も、食糧難の終戦直後のこともすべて両親の庇護のもとで暮らしましたので、「苦労」したという記憶と実感がありません。
しかし、物心ついたころにはまだ続く食糧難の貧乏生活は記憶しています。
大東亜戦争の末期、機関銃に対して竹槍で応戦とは発想が貧し過ぎて、言うのも恥ずかしいようなことですね。
無知と蛮勇と無謀でおっぱじめた戦争でしたが、いくらなんでも無差別の空襲と二度にわたる原爆投下は度し難いことです。
終戦記念日を明日に控えて、自分たちがみんなして作ってきたこの国は、戦争で犠牲になった方たちに対して、胸を張ってお見せできるような国にになっているのでしょうか。
猛暑続きで、朝のウオーキングも躊躇する今日この頃です。
どこか高い山に行きたい気分です。
明日は終戦記念日。
敗戦ではなく終戦としていますが、ここから戦後の復興が始まりました。
私は31年生まれなので、もちろん戦争を知る世代ではありませんが、今現在も世界各地で戦争があり、世界平和を願うばかりです。
何時までもお元気でまた有意義にお過ごしください。
我が骨董品の文章に沢山のコメント、メッセージ下されて感謝です。
ついつい「終戦」と言うことで、日本の平和の有難さから文章を綴りました。
感謝!!
どんこさん
年代が同じなので理解してもらったかと思います。
朝礼の時間に、≫≫≫何発も何発も顔を拳で殴りつけていました。
此れがまさしく、まかり通り不思議ではなかったのですね!!いびつな世の中。、国のためにまかり通っていました。
kazuyoo60さん
明日は79回終戦記念日、そんな事から取り上げてみました。
何時もコメント感謝です。
ぶちょうほうさん
機関銃に対して竹槍で応戦とは発想が貧し過ぎて
~~~これは小さいころから精神を植え付けるために行った幼児教育でありましょうが、
相手から見たら「たまげた、ビックリ、驚いた」でありましょう。
何時も丁寧なコメント感謝です。
ma_kunさん
≫≫≫戦後生まれで終戦当時のことは・・・。
おわかくてけっこうです。
骨董品の文章に付き合いて・・・・有難う御座いました。
葛飾の山男さん
お久しぶりです。
どうですか、こう暑くては山の方もなかなか無理なことでありましょう。
こちらは高齢、昔を思い出しながらこんな文章を綴っています。
コメント感謝。
sinさん
お父さんと同じ歳でしたか。
歳重ねますと昔のこと、また明日は終戦記念日、掘り起こし綴ってみました。
・・
終戦の日は 母のお腹の中でした。
迷惑をかけたんだな~と思うことがあります。
そして 物心ついたときは・・・・
米軍基地 小さな町ですから まるでアメリカでした。
* 戦争を母のお腹で聞きにけり
女は強し母もっと強(縄)
戦争は嫌なもの、でもやみませんね。
戦争の記憶はありませんが 母親として わが子を戦争ににもっていかれない
という幸せをいつも思います。
* 戦争は絶対ダメよなぜ起きる
煎じ詰めれば生きる戦い(縄)
争い無ければ警察要らぬ!!
必ずどこかで争いごとよ!!
人間の我がまま困ったこと佐・・・・・・・。
今は懐かしい!幸せに感謝!と申しますが「幸せ」と思えますまでの道のりは?です。
正座して玉音放送聴きし日は
われが五歳のあの夏座敷
遺児といふ偏見背負ひて生き来しも
いま掌の皺は「幸」の草書文字
この度、千葉県遺族会より推薦を頂き、読売新聞社の取材を頂きました。
その記事が8月15日の全国版にページの4/1の掲載に早朝より親戚・友人・知人の皆様から
今日だったらお話できるかしらと今も、多くの皆様からお電話を頂いております。
内容も未熟に恥ずかしいですが、父への供養になりましたことに多くの皆様に感謝を申し上げております。
私ごとに失礼いたしました。
≫≫≫ 遺児といふ偏見背負ひて生き来しも
いま掌の皺は「幸」の草書文字
心して読ませてもらいました。
≫≫≫
千葉県遺族会より推薦を頂き、読売新聞社の取材を頂きました。
その記事が8月15日の全国版にページの4/1の掲載。
是非読みたいと思いまして、万難を排して検索に検索を重ねましたが
その記事を読むことが出来ませんでした。(到達できませんでした。
もしhttpが解れば教えてください。
あらためて読んでみたいと思います!!!!
石橋 嘉子
千葉市中央区都町1-48-3
TEL/FAX:043-231-1477
携帯 :090-7226-6462
E-mail :yo-ishibashi@kbf.biglobe.ne.jp
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上記にメール、又住所を教えて頂けますれば新聞をお届けさせて頂きます。
面倒をおかけしました、新聞見させてもらいました。
有難うございました。