78回目の終戦記念日「戦争の惨禍、繰り返さない」戦没者追悼式
子どもの頃は8月になると戦争の話を直接聞く機会が多かった。
中学1年生の夏休みの登校日は8月15日だった。当時の担任だった数学の先生は、「僕が教師で居る間はずっと登校日を8/15にするつもりだ」と言い、自分も学徒動員されることを覚悟していたと私達生徒に話し、特攻隊で亡くなった青年が残した詩を朗読してくれた。
両親は戦争当時二人とも小学生だったはずだが、それでも当時の事を娘の私に伝えなくてはならないと思っていたようだった。
二人とも「戦争は食べるものが無くなるっていうことだ。」と小学生だった私に教えてくれた。当時は「(人はなぜ憎しみあうのか?とか殺し合いはいけないことだとか・・・)もっと先生のようにいろいろ難しい話をしてくれないのか?」と思ったのものだが、戦争の頃は両親も小さかったのだ。「食べ物がない」という記憶だけが鮮明に残っていたのだろう。
母は疎開先で食料がなく、長い間乳を搾っていた山羊が年老いて乳を出さなくなると、屠ってその肉を食べたのだが、「良い餌を食べていたわけでもなく、山羊も痩せていたから、あんなにお腹が空いていたのに、臭くて硬くてその肉を食べる事が出来なかった」と、母は眉をひそめながらその肉を食べた時の話を教えてくれた。遠縁の家に居候疎開をし、いじめられたという母は、「食べられるだけで感謝しなければならなかった。臭いなんて文句を言ったら大変な事になった。」とも言っていた。小学校低学年の子どもにとっては辛い事だっただろう。私が「火垂るの墓」を見ていた時も、「見たくないから、テレビのチャンネルを変えて」と強い口調で言っていたことを思い出す。
その当時聞いた戦争時代の話は、私の戦争観にも影響していると思う。
僅かではあっても、直接話を聞く機会があったからには、私も戦後世代の端くれなのではと勝手に思っている。
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幼稚園に通う前、1960年代半ば頃だったのだろうか。
両親とちょっとした買い物に出かける場所は立川と決まっていたのだが、道のわきにゴザのようなものを敷いて座っている人がいた。脇に小さな立て看板が置いてあり、『私は傷痍軍人です』と書いてあったのだと思う。(まだ字が読めなかったので両親に『戦争で怪我をした人』と教えてもらったはずだ)
片腕がないその人はひれ伏していたので顔を見る事は出来なかったが、松葉づえを置いた傍らには小銭を入れる缶やザルが置いてあり、更にその脇には譜面台を改造したようなものにハーモニカが括りつけられていた。時々吹いていたのだろう。
私はどうしてもお金をかごの中に入れたいと思い、10円を貰ってお菓子を買った際、10円のチョコではなく5円で買えるガムを買い、お釣りの5円を取っておいた。私がお金を入れたいというと両親は複雑な表情をしていたが、1回だけならと許してもらい、缶の中にお金を入れたことを覚えている。