「世の中にたえて桜のなかりせば春のこころはのどけからまし」在原業平
(もしも世の中に桜がなかったら、いつ咲くか、いつ散るかなどと心配事はなくて
春を過ごす人のこころはのどかでしょうに)
桜ではないがこのように感じることがいくつかある
今回、意識的に距離をおいてみたのが新城市議会の12月定例会で
これなどは歌の桜と同じで、気になりだすと怒りを覚えることが多くて精神衛生上よろしくない
(だから距離をおいてみたし、それ以外の理由としては市議会に関心のない普通の人のように
細かな情報無しでいられたら、どのような気持ちでいられるのか実感したかったので)
だが気になることはやはり存在した
その一つが「山崎市議に三回目の辞職勧告可決」
これは新聞に掲載された
しかし、どれだけの新城市民が気づいただろうか
そして記事を読んだ人はなんと感じただろうか?
山崎市議は数年前、自分が実質的に中心となって行った活動交付金の事業において
支払い実態のない領収書を業者から受け取り、それを元に市から交付金の支払いを受けた
(だいぶ後に業者には支払った)
この事実から、彼は政治倫理審査会にかけられて、時間をかけて議論された後
議会から「辞職勧告」の議決を受けてしまった(1回目)
ただこの団体の事業報告書等を見ると、支払い実態のない領収書だけでなく
奇妙に思われるところはまだいくつか存在した
2回目は、市民に丁寧な説明等を行うべしとされた議会からの要請に対し
彼は1回か2回、地元で説明をしただけで他には何もしなかったので
それでは不十分で反省の様子が見られないとのことで再度辞職勧告が議決された
3回目の今回も2回目と同様で、具体的な行動が見られないので
議員の間では市議会の姿勢さえも疑われるようになっているので
仕方なく辞職勧告決議を提案したのだそうだ
そしてそれが可決した
ただこのあたりになると、少しばかり原則論から離れたところの力
(議員間の感情的な行き違いとか力関係とか)が働いて、少しばかり好ましくない
と思う人が出てきても不思議ではない
これなどは新聞記事になったからいいものの、記事にはならなかった重要な議決があった
結果的に恥ずかしい内容の議決だが、それは「議会運営委員会村田委員長の不信任案」だ
残念ながら、最近の新城市議会のゴタゴタの大きな原因の一つに「議会運営委員会」の進め方にある
(議会関係者ではなく素人が傍聴していても思う)
議会運営委員会は名前の如く、議会を円滑に運営するための段取等を決める組織だが
現在の国会でも見られるように国会の開催や参考人招致等の決め事はここで仕切っており
数の力で正論と思われることが通りにくくなっているのと同じで
新城市議会でも奇妙な運営がなされている
例えば、あまり好ましくないことだが議員提出のある議員に対する政治倫理審査会開催の要請に対し
議長はその段取りを議会運営委員会の諮問した
ところがその議会運営委員会は立場以上の判断を行い「政治倫理審査会」を開催する必要はない
との間接的な結論を出した
最近の例では年に一度開かれる事になっている議会報告会が
例年なら10箇所、5日間かけて行われるのだが、今年度は4箇所一日で行うとの案が
議会運営委員会と広報広聴委員会で提案されたのだ
表向きはコロナ禍での議会報告会は慎重に行うのが良いとの理由だが
行政は同様な報告会意見交換会は例年度通り10箇所で行うことになっている
市議会だけがたった1日、しかも人口の多い地区の会場ではなくどちらかと言えば
参加者も少ないと予想される地区での開催が提案されたのだ
だが、これをコロナ禍のせいとするには素直にとれない理由がある
というのは、仮に多くの会場で議会報告会が開催されたならば、会場で取り上げられ
問題となり荒れるかもしれない状態が予想されたからだ
それは裁判沙汰にもなった政務活動費の問題で、議会運営委員会のメンバーには
その裁判の当事者が多いのだ(議会運営委員会の村田委員長も当事者)
結局のところ制度としての組織は、真っ当に機能しているか!
が問題になるのだが、決定に至る手段としては多数決があり
その多数決の権利を持っている個人個人にその資格が真の存在するか
と考えると、外から見てるだけでもストレスが貯まる状況になる
そこで精神状態が芳しく無くなるから、あえて今回はタッチしないようにしたのだが
市議会に関心のない方々はこのようなストレスは(何も知らないので)感じないと思われる
それで良いのか良くないかはさておき
国会も市議会も、知ってる人と知らない人の差は大きい
見ている人が必ずしも自分と同じように感じるとは思わないが
少なくとも見てるのと見ていないのでは大きな違いは存在すると思う
いろんな考えを持つ人の集まりとしての組織は、
自発的に良くなるべく行動をしうるものだろうか?
最近の国会や市議会を見ていると考え込んでしまう
でも面倒くさても、偏見によるものだとしても気づいた人の定期的なチェックは
やはり必要かな、、と思ったりする
(あと何らかの方法での広報も)
土曜日らしく手抜きで、あちら(パパゲーノの夢)からのコピペ
現在お手伝いしてる外国をルーツにもつ子どもたちの勉強の時の話
火曜日の二年生の彼は、この学年らしい奔放さで時々困ることがあるが
勉強に来ることには抵抗感が無いようで、むしろ楽しみにしてる感じ(と思いたい)
困るのは木曜日の3年生と4年生の男の子
彼らはとにかく落ち着きがない、宿題とかその日のテーマにかかるのに時間を要する
いざ取り掛かっても、やってる最中も気はそぞろ、、、
そこでいろいろ試行錯誤してみる
まずは集中するようにするには!を考えた
一つは集中する癖をつけさせる
もう一つは、お楽しみが後にあるので、とりあえず30分くらいは頑張るようにさせる
この集中力の癖をつけるのと勉強のあとのお楽しみに「お絵描き」の時間を与えることを考えたのだった
これは思いの外効果を上げつつあるような気がする
そんなある日のこと 以下コピペ
最初はそれほど乗り気ではなかった勉強あとのお絵描き
(外国にルーツを持つ子どもの勉強と時間の)
徐々に面白さを感じるようになって、この時間だけは彼らは集中する
黙々と描き続け、もっと時間を!と悲愴な顔をして懇願する
だが、描くネタも無くなってきたようだ
最初のうちは思いついたことを気楽に描いていても
何回か重ねると同じものを描くのは避けたい気持ちが彼らの中にも湧き上がってくる
さてどうやってネタを探すか、、、、
(実はこれも狙いの一つで、ネタが尽きた時、彼らはどうやってネタを絞り出すか
どのように頭を使うか?に興味があった)
先週と今週のこと、学校の授業では「図工(工作)が好き」
と言っている普段は落ち着きのない子が、すごくアイデアに富んだ絵を描きあげた
先週は間隔の狭い線をいくつも描いて、途中にコブのような曲線を混じえて、
そこが膨らんで見えるようにして手の形を描いたのだ(線だけで)
細かい作業なので時間がかかる
「もうちょっと、もうちょっと」
「見ちゃ嫌!」
と言って最後の段階に取り組んでいる彼
覗き見えた彼の絵とその意図
「すごい!」
単純にびっくりした
この発想はどこからきたのだろう、、すごい
今週もびっくりする絵だった
「見ちゃ嫌!」と彼は必死に描きあげる
今回は自信があるようで終わると
「これ、見て」と催促する
いつもの動物の絵ではなく、珍しく王冠を被った女性の絵だ
すると彼は「反対にすると、、、」
と言って絵を上下逆さまにした、すると出てきたのは老婆の姿だった
「すごい!」
思わず声が出てしまった
「すごい!」
彼はどうやってこれらのことを思いついたんだろう
仮に何かを見て真似しただけとしても、真似する価値があると判断した事自体が
驚くべきことのように思えてしまう
「すごい!」
この子はこれがきっかけになるかもしれない
自分の宿題を終えた後では(お絵描き前)下の学年の子の勉強の手伝いもしてくれた
そしてそれは自分の要望にとても素直に応じてくれた
今年は昨日(12月17日)で三年以上の子たちの勉強の手伝いはお終い
彼の絵が見られないのは残念なので、つい
「ね、今度の時までにまた絵を描いておいてくれないかな
僕は君の絵がみたい、、描かなくてもいいけど、描いてくれたら嬉しいな」
と伝えた
彼は来年会う時に絵を見せてくれるのだろうか
(本当に彼の絵を見たいと思う)
いつものことながら本質と関係ないことで気になったこと
先日の中日新聞の朝刊に夫婦別姓に関する記事が掲載されていて
最高裁判所の判決文が紹介されていた
「夫の氏を称することが妻の意思に基づくものだとしても、
意思決定の過程に現実の不平等と力関係が作用している」
真っ先に感じたのは
一見手順に沿った手続きとかそれに基づく結果が導かれていたとしても
実態はその過程自体が形式に過ぎないという例が頻繁に存在するのではないかという点
人はどんな屁理屈をも考えつく
屁理屈は単なる可能性としては存在する
しかし、ここからが肝心だが常識を照らしたチェックを行えば、それは単に可能性に過ぎず
いちいち取り上げて真面目に考える必要なことはないと思われる
可能性としては存在するが、現実社会ではありえない状況を取り上げて
そのことを過度に議論をすることは議論自体があらぬ方向に進んでしまう可能性がある
そこで、その議論を仕切る人が「その考えは現実的ではない(現実にはありえない)」
の一言でそれ以上の可能性としての考えを考慮することを避けてしまえば議論は進んでいく
制度と実態
いろんな制度があるとしても、現実という視点、その背景の解釈をシビアに反映していないものは
単なる空論に終わってしまうのでないか
(つまり法解釈優先ではなく、生活する人としての実態を考えたものでないと
真に有用なものでは無いのではないか)
市議会議員や国会議員のいろんな言い訳は、可能性としてそれらはありうるが
「そんなのは常識的に言い訳にならない」
の一言で済まされるのが多いような気がしてしまう
それはドラマ半沢直樹の最後の回で
「そんなのは国会議員の間で通用するかもしれないが世間じゃ通用しない」
のセリフに通じる
話は飛んで、最近気になるのはメディアの報道のこと
公平平等とか両論併記の報道というのは、ある意味、常識的な判断という知恵を最初から放棄した
責任逃れの姿勢のように思えてしまう
「そんなのは扱う価値なし」と判断してしまえば良いものを
ダラダラとさも公平中立のように伝える
それは良いことなんだろうか?
新城市の話題
先日の市議会の山田市議の一般質問で、非常に専門的な知識を要するものがあった
知識も資料もない一般市民からすると消化不良のようで、どこかモヤモヤしたものが残っていた
それは新城市浅谷の旧鈴木養鶏場の買取についての財源の話で
この買取の財源は市の財政調整基金から出されていたが
果たしてそれは適切だったのか?という問題
また、この買取は目的の不確かな普通財産にもかかわらず一般会計予算から支出したのは
適切であったかの点
これをそれなりに理解するのは少しばかり前提としての知識が必要で
自分が理解している範囲を備忘録として書き起こしてみると
まずは、財政調整基金というのは、何かが起きた時のための貯金のようなもので
例えば今回のコロナとか台風被害等に当てるためのものだ
鈴木養鶏場の購入に当てるのは、それほどの緊急を要するものだったのか?
という問が山田議員から提出されたのだが、ここは行政は上手い答えを用意していた
財政調整基金の使用については、法的に補正予算への上程が含まれているというのだ
補正予算自体が急ぐ類のもので、それに財政調整基金を使うのは問題ない、、と答える
しかし、台風被害等で使うべき金額をこうした旧鈴木養鶏場の買取に使うのは
まさかのときのために貯めてるお金が減って市民は不安になるのではないか
一体財政調整基金はどのくらい蓄えておけば適切なのか?
これは以前自分で調べたことがあって基準はしっかり決まっているわけではないが
標準財政規模という概念があって、その20%くらいではないかというのが市の答えだった
まさかの時のために貯金は多いほうが良いが、交付金として国からお金をもらっているなかで
せっせと貯金に励むのはふさわしくないので、このくらいが適当だろう、、との答えだった
だが、この鈴木養鶏の買取の結果、財政調整基金は目減りしたのは事実だ
二番目の普通財産を一般財源から云々という質問は、少しばかり面倒くさい
地方自治体の公共財産には行政財産と普通財産があって、行政財産とは学校とか庁舎とか
消防署でイメージさせるもので、担当する課が管理する
一方、普通財産はこれ以外の公共財産だ
問題はこのそれぞれの財産を取得するときの財源の問題
どうやら行政財産は目的がはっきりしているので一般会計から支出しても問題ないが
普通財産については、一般会計から支出するのは適切ではない、、らしい
これが法的にそうなっているのか、慣例としてなっているのかは部外者・素人にはわからない
旧鈴木養鶏場の買取には対し行政は、工業団地用にと計画しているがその他の選択肢もある
ようなことを述べていて、ここに引っかかった山田市議が、目的のはっきりしない財産は普通財産に
当たるので一般財源から支出するのはおかしいのではないのかというのだ
最近、他市の市職員を経験された方に、行政財産と普通財産の財源についてちょいと尋ねてみた
その方の話によると(自分の理解した範囲では)どうやら財源についての法定な縛りは無いようだ
目的のはっきりした行政財産を一般財源から支出するのは問題ないが、
目的のはっきりしない何に使われるかわからないようなものに、一般財源から支出するとなれば
市の財政はそんな余裕があるのかと(議会から?)批判を受けることになってしまうので
普通はその様な手段はとらず、土地開発公社とかなにかを間に挟んで購入するという段取りをとるとのこと
正確な理解をするにはこちらの知識が無いので少し違っているかもしれないが、だいたいこんなような内容だった
つまりは法的というよりは常識的に、目的のはっきりしない様なものは緊急を要さないので
一般財源からは支出しないのが賢い選択ということらしい
そこには、そんなものを議案提出したら議会から否決される!といった行政側の予想がある
ところが新城市議会がその様な常識的な判断をしたか?といえば
残念ながらそうではなかった
議会は議決によって行政の予算執行を認める
その議決の賛否するための判断材料(資料)は、ものすごく沢山与えられる
それはあまりにも多いために読み解くのが面倒くさいと感じさせるくらい(?)
面倒くさいくらいの多くの資料を読み込んで、常識的な感覚をベースに
ある時は行政の言い分を疑い、ある時は信じて、自分に与えられた議決権を執行するというのが
理想とする議員像だが、どうもそれはなされていないようだ
(もっともこれは新城市だけでなくいろんな地区でもそうだろうけど)
ところで、現在またもや行政訴訟(高速バス絡み)となっている案件も、
議会が自分たちに与えられた資料を読み込んで適時行政に問い合わせしていたならば
大事にはならずに済んでいるのに、と思ってしまう
(この高速バスの資料を見ると確かに疑わしい部分がいくつか存在する)
つくづく公務員(市の職員)は法律に縛られた範囲内で仕事をしていると感じる
市議会の一般質問に対する答弁では
「何々は法律の〇〇からこのように行うのが適切であると承知しています」
と言ったような言葉が至るところで登場する
そんな細かなところまで法律は規定しているのか、、と驚いたり
職員はよくもまあ知ってるものだと感心するのだが
先日の市議会の傍聴の帰り際、行政の中心にいる方々に
「本当にいろんな法律で縛られていて、聞いてても素人にはチンプンカンプンだ」
とこぼしたところ、
「法が(法の遵守が)我々の拠り所ですから」
とさらっと答えられた
当たり前の様なことだが、だからといって行政の発言をそのまま信じてはいけない
と思うことがある
まずは行政の発する法律解釈は、本当に行政の答弁する内容なのか、、という点
答弁を聞いた方は(議員も傍聴者も)そんな法的な根拠があるのを知らない場合が多いので
大半の場合、言われたことをそのまま信じてしまう
そこには行政は間違ったことは言わない、、という大前提がある
ところが以前、それが疑わしいと思われることがあった
それは数年前、大問題となった新庁舎建設の見直しの実務協議のときのことで
行政は現在の第二駐車場となっている場所は駐車場としての面積がある数字よりも大きいので、
そこからは法的に右折して出ることはできない、、と説明して、自由な出入りを予定していた
見直し派は一気に頭を悩ますことになった
ところが、現在は問題なく右折して出られる
行政はあの面積では右折できないとしていたのに、何故なんだろう
とこだわっている人は疑問に思う
実は駐車場の面積(の定義)にその違いがあったのだ
素人の見直し派は、駐車場面積は通路を含めてのトータルの面積を駐車場の面積と思っていた
(だからあの面積では右折できない、、困った、、と)
ところが、なんのことはない法的には車一台専有面積を(約2m×5m)として、
総台数に掛け算したのが駐車場の面積だったのだ
〇〇の面積以上は右折できない、、は事実
だが、その場所がそれを超えているかどうかは行政は説明しないで、原則論だけを口にする
つまりは、行政は間違ったことは言っていないが、勘違いするようなことは言っている
この場合のように、世の中にある法律の細かなことなどは、一般人や、もしかしたら議員さんさえ
知らないでいるし、更に本当かなどと調べるのは面倒なので無条件に信じてしまう事が多い
それだけでなく、ここからは独断だが、法には解釈という行為が伴う
誰もが同じように解釈する法もあれば、多様な解釈が存在するものがある
その様な場合のために先例集みたいなものがあって、それを拠り所にするのだが
困ったことにその先例を探すという行為にも人のすることは個人差が発生してしまう
ある人物は〇〇が正しいと想定して、その解釈の例を必死になって探す
またある人物は全く反対の例を同じように探す
困ったことにその両方が同時に存在し、いったいどちらが本当なのか、、と迷ってしまう
(実際にこの出来事は、行政ではなく市議会のある問題で起きたこと)
つまりは拠り所とする法も、説明されたそのままで本当にそうなのか?
と疑ってみると、少しばかり怪しいことは出てきそう
(間違っていなくても、間違って解釈されるように伝えるとか)
市議会の一般質問を傍聴していて実感するのは、余程のことがない限り
市議会議員は行政に討論では勝てないだろう、、ということ
〇〇の法律に従っての殺し文句は、議員さんはそれが何を意味するか調べるもの面倒なので
ついつい受け入れてしまうし、行政の人間は毎日の仕事でその分野の法には詳しいのは当たり前になる
議員さんは行政の長と同様に選挙によって選ばれて、行政のチェックを行うことになっている
議員さんがどくくらい真面目に取り組むかが、地方自治体が幸せか不幸かを決めることになりそうだが
現実はどうも行政の言い分をそのまま受け入れてしまう傾向が多いようだ
(受け入れないためには、それなりの法的根拠も必要で、それを探すのは面倒だし、
なまじっかの知識では行政にやり込められていまうので)
と言っても、(理想主義ではなく)現実主義に戻ると議員全員が問題意識をもって働くのは
統計学的に無理な気もする
その中で、どうしたら少しでも良くなるか、、ということになりそうだが
それは真面目な議員に頑張ってもらうしか手はないかもしれない
選挙権のある市民が、頑張っている議員とは誰かと知って
反対の努力もせずに行政の説明を鵜呑みにして議案に賛成するだけの議員は誰か
を知ることになれば、少しは良くなりそうな気もするが
だが、これは面倒臭すぎるか
つくづく選挙の年の瞬間風速的な議員の評価(スローガンに対する評価)ではアカンなと思う
同様に首長についても、選挙の年だけ情報を提供されても、、、
最近Youtubeで山の動画をよく見ている
昨日はNHKのBSで日本百名山で「常念岳」をやっていた
「常念岳」好きだな(遠くから見る形も好き)
蝶ヶ岳から常念岳への縦走は確か三回
燕岳から常念岳は一度
常念岳からは槍ヶ岳から穂高連峰のものすごい景色が見られる(蝶ヶ岳からも)
その景色も好きな理由の一つだが、山の持ってるおおらかさみたいなものが
自分にはしっくり来る
腰痛が慢性化してもうリュックサックを背負って山に登ることはできなくなった(しなくなった)が
少し頑張ればそこにとても純粋な世界が存在するのが、とても不思議なことのように思える
蝶ヶ岳からの縦走は、一旦結構な高さを降りて樹林帯に入るのがもったいといつも感じていたし
最後の登りは大きな岩を大股で登らなければならないので自分のペースじゃないので
夏山だけの登山者にはちょいとしんどかった
常念岳から下山する時はいつも後ろ髪をひかれる思いで、エイヤッと思いきらないと
いつまでも下山の一歩が踏みだせなかった
今は見るだけの常念岳
数年前、社員旅行で長野県に行ってバスの中から「常念だ!」と確認した時は
思わず涙腺が緩みそうになった
そう言えば、最近京都だけでなく長野県にもいっていない
夏山に出かけていた頃は、中央線の上諏訪あたりから光の色がはっきりと違っていて
「さわやか信州」てのは本当だな、、と実感したものだった
それにしても今はYoutubeがあるのがありがたい
昔、撮影した常念小屋からの槍ヶ岳
想像していた通りの内容だったが、想像してたのとは違う内容だったとも言える
「幸せのレッスン」エレーヌ・グリモー
著者はフランスの女性ピアニスト(今はアメリカに住んでいるみたい)
しかもとても美人だ
このカバー写真よりはもっと魅力的なものが、CDジャケットにはあって
ついついジャケット買いをしてしまいそうになる
以前、ご尊顔を拝したくて名古屋で行われたリサイタルにでかけたことがある
この時のプログラムが通常の名曲のオンパレードではなくて「水」をテーマにして
武満徹とかドビッシーとか現代作曲家を混じえたとても変わったものだった
記憶に刻まれているのは、とても変わったプログラムだったことと
ものすごく深くゆっくりとお辞儀をする人だったという点で
肝心の美しいお顔は遠くからだったのでよく見えなかった
どうしても美人ピアニストは外見が気になって仕方ないが
変わったプログラムを選択する内的な必然性が気になった
そのうち彼女はオオカミを飼っているという話を耳にした
またフランス人だがフランス音楽よりはドイツの音楽にシンパシーを
感じているらしいとの情報も彼女に対する興味は増すことになった
内面的な人かもしれない
本を読む前に想像したのはこのことで、やはり自分を見つめるタイプの人だった
ただ想像していたのと違うと感じたのはその内容の真剣さの度合いで
真っ向から自分と立ち向かう姿勢はピアニストの範囲を超えていた
(その文章力も)
内面的なスランプに陥った彼女は自分を取り戻す旅にでる
そこで必然のような出会いをいくつも経験する
ここは一本調子の感はあるが、その真剣さはその欠点を充分補う
読んでいてその光景が頭に浮かぶ描写力はすごい
難しい言葉を書き連ねているのではなく、ごく普通の言葉を用いているのだが
光の色、感触、懐かしさ、、、そうしたものをごく自然に思い起こす
(それは三島由紀夫の流麗な描写の文体とは全然違う)
人は社会との関係で存在し生きているのだが、この本は自分との関係について
真っ向から向き合っている
不意にヘッセの「シッダールタ」と「ガラス玉演技」を思い浮かべた
「シッダールタ」は内面への道と作者自身が名付けた作品で、このグリモーの作品もそのトーンは同じだ
そしてこの作品の所々に出てくる別の作家のエピソードは、「ガラス玉演技」でヨーゼフ・クネヒトの残した
2つの物語を連想させた
この内面的な人がピアノという楽器を使って聴衆との橋渡しのようなことをする
橋渡しされるのは音楽だが、音楽とは一体何か、、
その行為の充足感や達成感、そして意味
そうしたものを登場人物との出会いによって内面に確固とした何かが蓄積される
物語というのもは確かに現実ではない仮想の世界のことなのだが、
人に対する影響力は思いのほか力を持っているように感じられる
最近真面目に読んでいる社会学関係の参考になる著作よりは、この手の本の方が
じんわりと心に残っていそうな気がする
ただ、この本の日本語タイトルはちょっと違うなと感じられたのは少し残念
原題を英語的に訳すと「プライベートレッスン」となるらしいいが、
このほうがストレートに立ち向かうイメージがあって良いような、、、
おそらく自分が一番多く繰り返し聴いた交響曲はブルックナーの八番
手元にあるレコードやCDは様々な指揮者のものだったり
同じ指揮者でも録音した時が違うものなど、聴き比べを楽しんでいる
その中でも、第三楽章はとびきりお気に入りの楽章で、聴き比べをする時は
ここを取り出して集中して聴く
この音楽はとても不思議で、聴き漏らすまいと集中して聴いているのだが
もしかしたら集中というよりは音に身を委ねるといったほうが正確かもしれない
聴いてて得るものは(感じるものは)ブルックナーの人生観とか
それらを反映しているものとは全然違って、ただただ音響の表現するもの
ある時は自然であったり、寂寥感であったり、忘我の瞬間だったりで
この楽章だけで20分以上を要するが、何故か長いと感じないし疲れない
ただ聴くだけじゃつまらないと思い、楽譜を購入して音を目で追ったり
ベッドに寝転びながら音を思い浮かべながら眺めると、この音楽は
耳で感じるよりは緻密にできていてモチーフが、予想以上に考えられて変奏されている
この音楽はベートーヴェンの第九を参考にしていると感じることがあった
第4楽章で一楽章、二楽章、三楽章のテーマの回帰する構造が似ているというのではなくて
その設計、第三楽章に与えられた役割が精神的に似ている気がしてならない
ところで参考になるベートーヴェンの第九の第三楽章もとても好きな音楽で
有名な合唱の第四楽章よりも心に響く
この楽章も聴き比べをすることが多いのだが、ここで不思議で仕方ないのが
聴いた印象が全然違うということがいつも感じられることだ
特にフルトヴェングラーの指揮したものと、他の指揮者のものとは印象が全く違う
フルトヴェングラー以外の指揮者の音楽は、音楽表現にはいろんな解釈や方法があるものだ
と感じることが多いが、フルトヴェングラーの演奏は最初から何かが違う
演奏されて耳に達する音は楽器の音ではなく、自分の頭に備わっている楽器のようなものが
精神の活動によって響いているかのよう
だから演奏は指揮という指示のある行為の結果と言うよりは
既に存在している音楽の切り取りのような気がしてならない
(演奏者の自発的な行為のような)
何かが違うとはっきりわかるのは、曲の最後の方にあるファンファーレのところ
この一回目と二回めのファンファーレのあとの余韻とか寂寥感とか瞬間的な充実感は
果たして同じ楽譜による音楽なのか、、と感じざるを得ない
この魔術的な効果は指揮行為の技術のよるものか、解釈によるものかわからない
だた違うということだけはわかる
ということで、ベートーヴェンの第九の第三楽章は圧倒的にフルトヴェングラーの指揮したものが好き
それに影響されたブルックナーの八番の第三楽章の演奏では
現時点ではヴァント指揮ベルリン・フィル、ハイティンク指揮のロイヤルコンセントヘボウ
そしてフルトヴェングラー指揮のベルリン・フィルが気に入ってる
これらのうちどれを聴くかはその時の気分次第
(ジュリーニとウィーンフィル、クナッパーツブッシュのミュンヘンフィル、バレンボイムのシカゴ交響楽団も捨てがたいが)
以前、サッカーのコーチをしていた時のこと
当たり前の話だが人には能力の個人差がある
何でも上手くこなす子は、教えたり勝負に勝つにはとてもありがたい
でも現実はそういう子ばかりではなく、ちょいと手間のかかる子が大半だ
自分はそういう子の一人に謝ったことがある
それは、中学の子の練習の最後の日
「〇〇くん、ごめん、今まで君はそこまでできる子だとは思っていなかった
君が努力して、みんなと対等に、運動量においては優るほどできているのを見て
人は変わるので何事も最初のイメージで決めつけちゃいけないことがわかった
勉強になった!」
彼は左利き、細身の体で、そこそこできたお兄ちゃんと比べて
全てにおいて頼りない印象で、試合に先発で使えるタイプの選手ではなかった
でも、彼は仲間との折り合いが良かったのかずっと練習に来ていた
すると彼はとんでもなくスタミナがあることに気づいたのか、とにかく走り回って
ボールに絡むプレイが多くなって、チームのみんなも頼りにする欠かせない存在となった
そこで、第一印象を引きずっていた事をわびたわけだが、その後の彼の言葉で救われた
「ありがとうございました」
他になにか言ったかもしれないが、この言葉だけは覚えている
今までの練習(コーチ)に感謝したのか、それともかけた言葉に感謝したのかわからないが
(自分は後者の方と感じた)
子どもは無限の可能性があると抽象的にはよく言われる
だが現実には、割と決めつけで判定されることが多いと思われる
それでも彼のように一種の化けるのを目前にすると、可能性を信じてあげることは
とても大事なことだと思ったりする
現在、ボランティアで行っている勉強の手伝い
不安を覚える彼らも、いつか大化けする!
と信じることが肝心だと思うようにしている
今年はベートーヴェンの生誕250年ということで、本来ならばいろんな音楽会が開催されるはずだった
ラ・フォル・ジュルネを当てにしていたが、あいつのせいで全ておじゃんになった
テレビでは遅ればせながらベートーヴェンの特集を行った(NHKのEテレ)
番組はみんなが選ぶベートーヴェンの名曲ということで事前にアンケートを行い
その結果の発表だった
ところが、その結果は(偏屈な)自分にはちょいと一言言いたくなるものだった
一位は第九、2位は7番の交響曲、3位は悲愴ソナタ 5位が運命 6位が田園
著名な曲だが自分の選択とは違う(いい曲には間違いないが、、、、)
アンケートは一人三曲を選んでNHKに連絡するようになっていたようだ
名曲とは何か?を深く考えたアンケート結果というよりは
知ってる曲を並べたのではないかと思ってしまう
自分の選んだベートーヴェンの名曲は、なんと言っても32番のピアノソナタ
一人の人間が達することのできた奇跡的な境地を表現していて、
ひとはここまでなれるのだといつも感動を覚える
特に変奏曲の第2楽章の瞑想的な旋律は、年齢を重ねないと良さが理解できないと思えて仕方ない
この旋律を美しいと感じるには経験が必要で、感覚的、情緒的な美しさとは別ものだ
交響曲では三番の英雄
理屈っぽいベートーヴェンだがこの曲は過度に興奮させる音楽ではなくて
もっとおおらかに構えて、若さゆえの次々と出てくる旋律も感じられて完成度が高い
あとは、どっちにしようか迷いそうだが、弦楽四重奏曲の14番嬰ハ短調か15番のイ短調
14番の一楽章の静謐な感じと変奏曲の楽章はとても印象に残る
15番は有名な第三楽章よりは最初と最後の楽章が良い
これ以外にも弦楽四重奏曲の7番とか12番とか、部分的には荘厳ミサ曲のアニュス・デイとかも捨てがたい
みんなが知っているという曲が、作りての真価を表しているかどうかは、どうも別問題のように思える
みんなが知って親しむには親しみやすさが必要になる
世の中には知られていない名曲とか名作(小説などの)があるもので
それらは必ずしも親しみやすいとは限らず、それ故にそれらと接するには
自分で探すしかないという手間を必要とする(味わったり経験するのにも手間がかかる)
今回のNHKの結果は知名度の差のような気がしてならないが
人に披露する雑学としての音楽や小説の知識(名前を知っているかいないかなどの)よりは
それらと接した時に得られた何かを大切にするなら
いろんなベストテンの順位は変わってくるように思えてしまう