やってしまった
今回はギックリ腰ではなく、足の小指を机の脚にぶつけてしまった
これって、案外やってしまう
なにかのテレビ番組でこの特集をやってたから、同じ経験をしてる人が多いと思われる
不安なのはこの失敗を繰り返す頻度が最近増えてないか?ということ
何でも歳のせいにされやすい年齢だが、気をつけねば!
ジョン・レノンが殺害されたことをラジオで聞いた時
初めて経験する感覚だったが、足元から力が抜けていく感じを覚えた
予想以上にショックだったかもしれない
自分にとってのジョン・レノンは、ポール・マッカートニーとの比較
として気になる存在だった
親しみやすいメロディーメーカーのポールの作品だけで良いのか?
それをいつも問いかけられているような気がした
真面目なジョン、お気楽なポール
でも好きなものはしょうがない
あの当時けちょんけちょんに酷評されたポールのアルバム「RAM」は
自分にとっては最高のアルバムで、ポールのエッセンスがふんだんに溢れていて
「これは絶対に良い」と確信していた(その後世間の評価は肯定的になった)
真面目なジョンの気になるアルバムは「イマジン」ではなく「ジョンの魂」だった
冒頭に「マザー」があって最後に「母の死」が納められた統一感のあるアルバムで
シンプルな編成の音楽故に言葉の訴える力が強く、自分にとってはこれは一番のアルバムだ
でも何度も聴けない
印象が強すぎるからだ
一方ポールの音楽は深みはない(?)かもしれないが刹那的な、そして身体的な歌う快感に
満ちた音楽で、誰もが真似しようとしても真似できない音楽のようで、ついついその音楽に
身を委ねてしまう
最近、「イマジン」が多くの人の集まるところで歌われたようだ(アメリカで)
今こそ「イマジン」の世界観が必要とされることを直感的に感じ取った人が
歌い出したところ、周りにいた人々が合わせて歌ったらしい
ところで日本ではこのような時、みんなで歌う曲があるのだろうか?
(ある時、イタリアのフィレンツェの美術館の開館を長い列で待っていた
多くの人は、誰かがビートルズの歌を歌いだしたところみんなが声を合わせたとか)
日本の誰もが知っている曲を自然発性的にみんなで歌い出す
そんな場面に出会えたら高揚感とか一体感を感じられ、幸福感も合わせて感じられるかもしれない
ところで、「イマジン」だが、この歌はデリケートなつぶやきのような歌で
みんなで歌うには歌いにくい音楽のような気がする
みんなで歌うには「パワー・ツー・ザ・ピープル」とか「ギブ・ピース・ア・チャンス」
のようなシンプルな繰り返しの多い、大声を出しやすい曲のほうが良さそう
ところで、自分の好きなジョン・レノンの楽曲は
「ジェラス・ガイ」「ハッピークリスマス」「ゴッド」
それにしても、一時期ジョン・レノンとポール・マッカートニーという才人が
同じ地区にいて一緒に仕事をして切磋琢磨し合ったというのは、歴史の(時間の)
気まぐれのようで、とても不思議な気もする
今月(12月)の「100分de名著」はブルデューの「ディスタンクシオン」
自分はこの作家も本のタイトルも全然知らない
だが番組の解説が面白そうだったので録画しておいた
本は新しい知識を得るのと同様に自分の認識を確認する役割がある
なんだ、自分がずっと思っていたことと同じじゃないか
とか
今まで上手く説明できなかったが、言いたいのはこういうことだったんだ
などの経験は少なからずある
まだ一回目だが、この本も自分が思っていたことをうまく解説してくれそうな感じ
興味深いエピソードが紹介された
歳とった方の手の写真を見てどのように感じるか?
とのアンケートを行うと社会的な(経済的な)クラスによって捉え方が違うというのだ
労働者階級の方々は写真に写る血管が浮き出た手を見て、それまでの生活や人生を想像するのに対し
ハイクラスな人たちは写真の構図とかの技術的な面に関心が行くという結果が現れたというのだ
(自分は人生の方を想像してしまった)
他にもクラシック音楽が好きな人とそうでない人の差はどこにあるかを考えると
稲妻の一撃のような個人的な(運命的な)ものよりは、その人の周りの環境が左右するとしている
身の回りにその手の音楽がある場合とない場合の差が感受性の差になって現れるというのだ
でもこの例は自分にはちょいと違う(気がする)
家はクラシック音楽を聴くような家庭では無かった
彼がそうではないとする稲妻の一撃は、小学館の本とレコードが合わさった安いセットによって引き起こされた
中学のクラブ活動で疲れた体で、17センチのレコードで「運命」を聴いた
最初は冒頭は知ってても最後まで知ってる人は少ないだろうから、最後まで聴いて自慢してやろう
くらいな気でいた
ところが聴き終えると自分の中で何かが起きていた
それをなんと表現していいかはわからないが、とにかくそれ以前と以後は自分は変わってしまった
という実感だけは今も残っている
こうした例外はあるとしても(?)、社会的な環境(地域・経済等)によって自分たちが
身につけたものはコントロールされている、、とする考え方は、そうだろうなと納得できる
現在、社会の分断が見られるという
この分断は単なる個人の考えかたとか感じ方の違いに起因するのではなく
あることに対する怒りも、怒りを覚える人覚えない人の社会的な環境に左右されるのは当然のことかもしれない
この本は面白そうだが、難しいとの評価があるそうだ
(だから購入しても読みきれない不安がついて、欲しい物リストには入れてもおいても購入は、、、)
フランスでは、本は難しいと感じられないと売れないとの認識があるそうだ
そう言えば、確かにフーコーもよくわからなかった
でも本と格闘した後は、何かが残っている気もしているので無駄では無かったと思いこむようにしている
「100分de名著」は早寝早起きにはしんどい時間に放送される
録画しておけばいいけど、それも忘れそう
忘れたらその時はその時、縁がなかったと考えることにするしかない?
でも、あの番組の先は気になる、、
先だって寄付いただいたお金の使いみちに困っている
その方からは、外国にルーツを持つ子どもたちが日本語を学ぶ機会として
爆発的な人気のアニメ映画「鬼滅の刃」を見に行くための費用の負担を申し出て頂いた
ところがコロナの第三波で、映画館は密を避けるようになっているとは言え
豊橋、豊川の陽性者は新城より多いので、どうしても慎重にならざるをえない
心配性で高齢者の多い中では思い切るのは難しい
そのために精神的引っかかっているのが、行き先のない寄付されたお金の使いみち
そこでボランティアスタッフの間で相談してみた
いろいろ候補は出たが、これは!とひらめくものがない
「鬼滅の刃」ほど直感的に「それが良い」と言い切ることができない
「絵本が良いかな、、100万回生きたねことか」
「ああ、あれね、でもあれは子どもには難しい、、」
「そうだね、あれは大人向けかもしれないね」
「大きな木って(絵本)知ってる?(シェル・シルヴァスタイン)
これなら文字も少なくて、ひらがなが多くて読みやすいかも」
実はこの本は自分のおすすめだ
大きな木と、ちびっこから老人になるまでの一人の人間の交流が記されている
大きな木はいつも与えるばかりで「それで嬉しかった」とページを結んで次の話に移る
ある時木は自分の枝どころか幹も、その人間のために提供する
そこでも木は嬉しかった、、との言葉が出てくる
その直後「でもそれは本当かな?」の言葉がぐさりと胸をつく
(それはまるでモーツアルトの短調への転調のよう)
この深いつぶやきのあと、何事もなかったように大きな木の献身は続く
この本は劇的なところは一つもない
とても静かな物語だ
読むのに子どもでも数分しかかからない
でも、子どもに何かを感じてもらいたいと思う
絵本は子供向けというより実は大人向けなのかもしれない
といって説教くさいのは好かない、詩的なのが良い
(探すのが難しそう!)
それにしても、どうも気になってしまうお金の使いみち
何かいい方法はないものか、、
地元新城市の話題
昨年の地域意見交換会のことを数日前取り上げたが、少しばかり批判的なトーンだったので
今回は肯定的な内容の紹介を
2019年10月2日、市役所会議室で行われた新城地区の意見交換会では以下のような声があった
参加者からの意見、提言内容
新城小学校の入り口の建物でボランティアで外国出身の子の勉強を見ています。子どもによって学力に差が出ています。
予算をそうした子どもへの学習支援に使ってほしいです
回答等
市内では外国人の方が増えています。外国人に対する手当てが十分ではないので、市長会を通じて国に要望をしています。
同時に市でもやっていかなければなりません。現状を見ながら具体的に何ができるか検討していきたいです。(市長)
その後の進展状況もHPにアップされていて
回答後の対応又は現時点の進捗状況等(昨年12月末現在)
日本語がまったく、もしくはほとんどわからない児童生徒が、できるだけ早期に学校生活へ適応できるよう、小中学生を対象としたプレスクールを検討しています。(企画部長)
その後どうなったのか?という点だが、今年の新城教育委員会9月定例会議の議事録にこんなのがあった
日本語初期指導教室開室についてということで、学校教育課、お願いします。
○学校教育課長3月、4月、5月の休校に伴って、日本語をまだ習得できていない外国人児童生徒の日本語習得に向けた支援をしたいということで、日本語初期指導教室を開室させていただきます。具体的には、新城小学校に1人の指導員、千郷小学校に1人の指導員を配置します。そして週4日、いずれも午前中、2時間目、3時間目、4時間目、3時間の授業を特別に取り出して日本語初期指導教室で学習を行うという形を取らせていただきます。10月最初の週からスタートさせていただく計画であります。よろしくお願いします。
○職務代理者以前にもこのお話が出てきたかなと思うのですが、新城小学校と千郷小学校にそういう教室を設けると。そこを利用されるのは、小学生だけではないのですね。
○学校教育課長今のところ、授業についていけないとか、あるいは日本人の友達との意思疎通に困るというのがやはり小学生に多いようですが、最初、差し当たっては小学生のみということで対応させていただきたいと思っております。
このように意見交換会でのプレ教育の要望は形になっているようだ
(議会でも補正予算が通ったので実現されることになったが、その項目はどこにあったかわからなかった)
プレ教育が現実に効果を発揮しているかどうかは現在のところわからないが
このように提言されたことが形になるのはありがたいだけでなく、次にも何かを提言しようという気持ちにさせる
新城市では意見を聞くとか共通認識を持つために、市民まちづくり集会とか議会報告会がある
ところがそれらは、「やっただけ!」になっているのが実情で、参加者や傍聴者は達成感がない
次への参加意欲は、自分たちの言い分が何らかの形で実現されてこそやる気が出てくるものと思われる
その意味では、会を開いた中で得た要望の1つや2つは何らかのかたちで実現をする(予算化する)のが
次につながる(関心を持続させる)と思ってしまう
聞いた話では岐阜県の可児市は、議会報告会で出た意見は(そのなかから選ばれて)実現されうように
最初から予算化されているとか
今回はいい話で、文句ばかり言っている身にもありがたいが、せっかく良い話なんだから
もう少しみんなにわかるように自慢してくれたら、、、と思ったりする
(個人的には市は自慢するところが違っているような、、、)
つくづく実感することがある
こまめにやっておけば後が楽だということだ
豊橋に母方の家(その他親戚分)のお墓があって月に一度位のペースで草取りに出かけている
その草取りだが、こまめに出かけているので雑草はそれほど伸びていない
夏の時期になるとちょいと分量は増えるが、冬の時期は雑草は地表にはわずかに顔を出してる程度で
指で抜きとるにも苦労する(冬の時期は根っこが伸びていて、その生命力には驚く)
毎回、こうして定期的に行っておけば楽だなと思うわけで
年末の大掃除をしなくても、こまめにいろいろやっておけば楽ちんだ(といつも思う)
これを少し真面目な方に話題をシフトすると、いろんな面でも言えそうだ
残念ながら、地元新城市は問題が多い
最近は市議会で議員さん同士のドタバタが続いている(大半の市民は知らないと思われるが)
このトラブルの原因となったことなどは、こまめにやっておけばなんてこと無いことで
単にそれができていなかっただけなのだが、これが現実はできていない
そうなると今度は気づいた市民が指摘して批判するようになる
ここでも、残念なことにこまめに注視して指摘しないとどうも内々で良くなっていく
というのは難しいかのようだ
だが注視し批判する方もそういつもいつもは面倒になる
結局のところ、わかっちゃいるが、なかなかできないのがこまめな行動ということろか
地元のJCのメンバーが心細くなったある時、参加の呼びかけに使われたのが
「面倒くさいけど、面白い」があったそうだ
JCの活動は経験していないのでわからないが、話に聞くと予想に反して(?)
真面目なもので、メンバーにとって後々役立つ有効なものらしい
最初は面倒くさいだけだが、やってみると面白い
実感としてそういう思いに至る、、ことを表している
よく知ると面白いが、きっかけの部分で面倒臭くてかなわん!
ということはよくあることで、先日知人の会話にもそうした話が出てきた
その方は真面目な内容のブログを投稿している
ここであるような独断と偏見を避けて、客観的に物事を捉えている(そう意図している)
だがそうするためには、いろいろ調べなくてはならない(事実認定を両サイドから)
そしてその調べた内容をベースにした投稿は必然的に長くなる
この作業が面倒くさいので、仕事を持っている身には頻繁な投稿はなかなか難しいらしい
彼にとっては「面白いけど面倒くさい」というところだろうか
ところが他にも面倒くさいと思う人々がいる
それは読み手の方々だ
自分のもそうだが、長い説明とか文章を読むのは、物事をいちいち調べるのと同様に面倒くさい
何が言いたいのか端的に分かるようにして欲しい、、
と読んでいてイライラしそうな気持ちも分かる
そうなると、比較的多くの人々は自分自身での詳細な事実確認よりは
発信力のある人の断定的な発言を受け入れて、それを自分の考えとする方が楽だと考え
知らす知らずそうしている(と思われる)
最近の極端に走る傾向の多いSNS上の戦いとか、アメリカ大統領選の日本国内での論争とか
愛知県知事のリコール問題とか、その他、我が市のゴタゴタも本質的な詳細の事実確認よりは
勢いに乗ったわかりやすい断定のために起きてしまっていることのように思われる
そして単純化された断定は感情的な要素が極めて多いのではないか
この感情の占める割合を低くして理性で物事を判断するのが民主主義の本道(大きく出たな!)
とされているが、どうもこの理性だけに特化した考え方も不完全ではないか、、との考え方もあるようだ
考えてみれば理性で判断する前に、何か感覚で危険とか怪しいと感じることはある
それを無意識・潜在的な能力の発露というか「ファスト&ロー」という本の「ファスト」の判断によるのか
いろんな言い方があるようだが、どうも理性だけでの判断は完全ではなさそう
しかしそれでも頼るのは理性の部分としたほうが一般化しやすい
(感情とか直感は個人差が激しすぎるので)
だがその理性による判断をするには面倒という心理的負担が伴う
どうやら情報の伝達は、案外いい加減なところで自分勝手に自分好みに行われていると思われる
この時生じる捉え方、意見の違いを、どうすれば解消できるか、、となるのだが
結局のところ、面倒な過程を踏まないと解消できそうに無い気もする
つくづく面倒くさい、、というのは厄介なものだ
(面倒くさいを解消するために家電がいろいろ進化したのだから、
面倒ということは全面的に悪いことではないかもしれないが)
ところで実生活では
ちゃんと部屋をきれいにしておきなさい!
と言われるが、面倒くさいので、、、ついつい、、
(面倒くさいは口癖のようになっているかも)
地元(新城市)の細かな話
新城市では行政が中心となって市民の声を聞くための意見交換会が、数年前から年に一度行われている
新城には10の地域自治区があって、この地域自治区ごとに近くの会場で行われる
この意見交換会の参加者、傍聴者は現実には、地域自治区の地域協議会のメンバーが多い
地域協議会とは地域自治区を制度としてを設ける時には設置するように法律で決められた組織で
そのメンバーの選定は各地自治区ごとに決められるが、大半は区長さんがなることが多い
そしてこの地域協議会のメンバーは、年会数回行われる会議に出席すると手当として幾らかの手当が支給される
地域協議会で会議を開いて話し合うこと(決定すること)は、地域独自の問題の解決とされるが
現実的には活動交付金と地域自治区予算の決定だ
活動交付金とは、地域の有志が提案した地域のために良かれと思うアイデア・行動に対して
その行動の助けになるべく費用を提供するもので、有志の提案は協議会のメンバーの前で
プレゼンテーションを行い、そこで交付金が受けられるか否かが決められる
この交付金は活動に関すること(ソフト)への補助的要素があり、ハードの事業には使われないことになっている
(自分に関することでは、あいさつ推進運動で着用する帽子とかベスト、傷害保険等が支給された)
一方、地域自治区予算は地域自治区で必要な事業に関することで、ハードの事業にも使えわれる
多いのはAEDの設置とか防犯灯の設置とか、、その他いろいろだが、地域協議会で
「今年はこういう使い方をしよう!」と決めてもそれがそのまま決定事項ではない
地域協議会で決められたことは「市長に対し建議」というかたちでお伺いを当てる
市長はそれを了解すれば予算として議会に上程し議会は賛否の決を取る
手続きはこのようになっていても、現実は地域協議会が決めたこと(建議)したことは
今まで否定されたこともなく、議会で否決されたこともない
それは(日本学術会議ではないが)「形式的手続き」に過ぎないように思えてしまう
そこでフト思ったのが、こうした手続が形式的に過ぎないのなら
その過程を省いて地域自治区が自由に使えるようにしたほうが
当事者意識も責任感も感じて結果的に有効なお金の使い方になるのではないか
ということ
昨年の意見交換会で、このように聞いた
問
建議されたことが否定されたことはありますか。
否定されたことがないのであれば、(区ごとに支給される)交付金のように自由に使える形に変更できないのですか。
回答
交付金は、行政区で使い道を決めるものです。地域自治区予算は、交付金とは性格が異なり、市の予算として執行する市の事業です。予算書に計上されます。地域が市に執行させるため建議の形をとります。今まで否定したことはありません。 自治区の発足当初からの考えとして、自治区の発意を最大限尊重するという理念があるからです。そして市議会に上程されます。市長が建議書に対し否定する場合は、理由を説明する責任があります。通過儀礼のつもりで行っているわけではありません。1つの自治区から出された事業でも、複数の自治区で出てきた場合は市全体の予算書に入れるということもあります。(市長)
つまりは制度の問題としてはそうなっていないと言っているに過ぎない
そこで、昨年は再度の質問が許されたので続いて聞いてみた
問
交付金の形で予算編成すればいいのではないですか
回答
域自治区に全てお金を渡すので、自由にお使いくださいという考えも一つの考えだと思います。この制度が煮詰まっていけばあり得ることです。今現在、法的な位置づけがそこまでいっていません。市長の補助機関の位置づけです。一つのアイデアとしてはありえます。(市長)
ここで、昨年の出来事をわざわざ取り上げたのは何故かといえば、
この地域自治区制度自体が本当に市民に理解されて活動しているかが疑問だからだ
流石にこの制度が採用されて時間が経過しているので地域協議会のメンバーを経験した方も多く
その人達には大体の内容はわかっている
しかし、そうでない人たちの理解はどうなのか、、といえば
市民の間の地域自治区の理解は全然進んでいないと実感されることがあった
それは三年まえのこと、この年は市長、市議会議員の選挙が行われ
市長選では立候補予定者3人による公開討論会が行われた
会場は三箇所、会場ごとに主なテーマを決めて、そのことに対する各人の考え方を披露するのだが
文化会館で行われた討論会のテーマは「市民自治」で、ここでは「地域自治区」のことが自ずと議論の対象となった
ところが、この時の会場の反応が(それは個人的な感覚なのだが)議論されている内容を理解しきれていないように思えたのだ
この印象とか判断は独断で申し訳ないが、こうした市民が理解していない(と思われる)状況で
こうした公開討論会とか、地域自治区制度を行うのはどうなんだろうと感じたのだ
世の中は「意識高い系」(マニュフェストとか地域自治区を理解して、行政の予算の使い方に関心あるような)の人ばかりではない
むしろ、そうでない人の方が多いのではないか
人は納税者、主権者、生活者の面を併せ持っている
そして一番のウェイトを占めそうなのが「生活者」の部分で、主権者を感じるのは4年に一度位なものと思われる
この普段表に出ない主権者(選挙行為)に関する意識高い系の方々の理屈で、制度が実行されても(ある条例が制定されても)
「我がことのように考える」を基本とした「市民自治」の考えが実現されるとは思えない
みんながみんな「我がことのように考える」というのは、数字的には現実的ではないと思われるが
それでも、少しでも「我がことのように考える」人が増えることを希望してしまう
(ある会議ではこのことのほうが時間をかけて話し合われたのだが、、、)
さてどうしたら「我がことのように考える」事ができるようになるか、、、
ところで、今募集中の今年の地域意見交換会に参加する人数はどうなるのだろう
この人数の多い少ないで、ある程度の「我がことのように考える人」の割合が想像できそう
と思ってしまうが、、、さて
聞きかじった話!
森友学園事件で公文書改ざんの中心人物と思われる佐川さん個人に対し
賠償金を支払うように求めた裁判がある
そこでは更に証言台に立って公文書改ざんの理由とか実態を明らかに
してほしいとの要望も含まれている
ところが、専門家の話を聴くと「裁判というものは、、、」
と首をかしげる状況にある
まずは佐川さん個人の賠償については、国家公務員法(?)では仕事中に生じた
行為については、個人ではなくて国が支払うとした記述があって
佐川さん個人を訴えてもこの点で負けてしまうかもしれないというのだ
一方、佐川さんへの賠償金の金額の設定(訴状の)はあまり金額が低いと
彼が支払って一件落着としてしまうのを避けるために、原告側は高めに設定してあるらしい
また話は違うが、ある行政裁判では訴状の中に(そちらが)負けた場合は
弁護士費用としてすごく高めの金額を支払うようにするという項目を入れて
裁判参加への意欲を削ぐみたいなこともあったそうだ
(具体的にはどんな内容だったか忘れたが、だいたいこんなふう)
どうやら裁判というものは、勝ち負けを決する勝負事であって
「どちらが正しいか」を決める場だけではなさそうということを最近実感しつつある
(少しばかり経験したので)
双方が勝つためにいろんな理屈を探し、そして相手側の不備を突く
それは本質的な内容の部分ではなく、ほんの入口の部分の手続きをついてくるのもある
そしてその理屈は、素人にはわからない専門家同士の空中戦の様な戦いになる
その空中戦は、一般人の常識とか感情からすると「なんだかなぁ~」と
首をかしげてしまうことが多い(佐川さんの個人の責任のように)
裁判は単に事実認定による公平な判断というのは、絵に書いた餅まではいかないとしても
どうも怪しいものらしい
それは、先のアメリカ大統領選挙前に最高裁判事の欠員の任命に共和党よりの人物を抜擢し
裁判の内容いかんを問わず、トランプさんに有利に働くようになっていると報道された
裁判は結局のところ、「現時点において」とか「実定法の範囲の中で」との限界がある
と言っても、実定法を無視して進めていくのは極めて乱暴な話で、ある程度はその範囲内で
進められるのは仕方ないかもしれない
でも「それでは何かが違う」と湧き上がってくる感情とか怒りは
いくら説明をされても納得できないかもしれない
となると、実定法に定められた法自体が現実を反映していないものではないか
との考えに至るかもしれない
ということで、現時点での法はいつか変わるかもしれない動的なもので
解釈至上主義ではいけない、、となるのだが、これは何も知らない素人の希望を含めた願い
最近、身近な方が裁判を起こしているので、ついこんなことを考えてしまった
例えば右目をつぶって左目だけであるものを見る
次にその反対で行う
同じものを見ても色の違いが僅かに感じられる
左目を網膜剥離の手術を行ったかもしれないが、とにかく微妙に違う
日本人と外国人(例えば欧米人)とは目の色が違う
それ故に見えている色が違うらしい
同じものを見てもこのように感じ方が違うのだから
その捉え方をベースにした考え方が違ってくるのは当然のこと
言えるのは、同じものを見ているとう事実だけで
感じ方は人それぞれ違うということだ
人は気をつけて客観的な見方をしようとしても、生きてきた経験から離れて
物事を見ることはできないのではないと思われる
偏見の英語prejudiceは「pre」と「judice」を分けて考えるのが
受験用の英単語を覚えるコツで「前もって判断する」が偏見の意味とあったのを思い出す
こうしたことは視覚に限ったことではなくて、音楽や考え方も同じで
同じ音楽を聴いても人の感じ方は違う
またある講演を聞いたり本を読んでも感じ方は違う
捉え方はどうしても個人の生活体験から得たものからは離れることはできない
つまりは人はみんな違った感じ方とか考え方をするということだが
不思議なことに、それでも何故か同じような感じ方をするのも事実だ
言葉にすることが難しい音楽の印象についても
演奏会を聴き終えた人たちが興奮気味に同じ様なことを言ってる場合が多い
みんなが違っていて当たり前の部分と、みんなが同じように思っていることが
同時進行的に存在するのだが、みんなが同じように思うことは社会的な面では
「倫理とか常識」であり、違っていて当たり前とするのは、
左脳を使った物事の解釈の部分ではないだろうか(と勝手に思ったりする)
そして困ったことに左脳は自説を正当化するために無理筋の理屈すら探し出す
それは「違法ではないが正義ではない」という状態を作り出す
そして現代社会をややこしくしているのが、このなんとなくみんなが感じることが
あまり大切にされずに、直感的には無理筋と思われるものが
強引な理屈なり数の力によってまかり通っていることだ
安倍さんの桜を見る会の前夜祭の領収書(が無いとする)言い訳
あんなのは常識のフィルターを通せばウンもスンもなく違和感を感じるのが普通だが
それでも可能性としてありうるとして、ありもしなかったことを平気で口にした
(結局、ホテル側の明細や領収等は存在した)
最近は何かを決めるのは「数」になっているようで、数とは多数決のことで
数が多ければそれが正義なり正しいこと、、とされる
そうしたほうが良いと思われること(参考人招致)も、党の都合で、そして数の力で
実現はされない
最終的には民主的な決め方として多数数があるとしても
多数決が真っ当に機能するための条件を考えたりすると
人の世の中は随分危なっかしいところで成り立っているものだと実感する