Françoise Desportes, Le pain au moyen âge, Olivier Orban, 1987 (見崎恵子訳『中世のパン』白水社、1992、2004)
本業の仕事が忙しくなってくると、それから逃避して別のことをしたいという思いが募ってくる。原稿の締め切りなどに追われると、放り出して逃げ出したくなる。忙しさが増すほど、逃げたくなるからかなり重症である。前から聴きたい、読みたいと思っていたCDや本がとりあえず逃避の対象となる。旅行の途上などでは、日頃の関心事とはかなり離れたテーマの音楽や本が欲しくなる。
この本もこれまで「積読」の山に埋もれていた。新書になる前は、同じ出版社から確か1999年に刊行されていた。いくつかの動機から、ぜひ読みたいと思っていた。読んでみると、やはり大変面白い。詳細な内容に興味ある方は、現物に接していただくしかないが、構成だけは末尾に示しておこう。
中世のパンづくり
さまざまな点で、注目すべき点があったが、とりわけ、パンづくり、パン屋の共同体と同職組合(ギルド)、パンの価格の形成についての章に興味を惹かれた。もともと、「労働」の研究者であるため、熟練の形成の仕組みや労働の態様には長らく関心を持ってきた。もうひとつの直接的動機は、このサイトで取り上げているラ・トゥールに関連している。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年ロレーヌ公国の町ヴィック・シュル・セイユにパン屋の息子として生まれた。父親ジャンjeanの家は石工、母親Sybilleシビルの家および彼女の兄弟はすべてパン屋であった。生活必需品であるパン屋の方が暮らしが立てやすかったのだろう。ジャンは妻の家の家業を継いだ。この頃のロレーヌは、きわめて平和で豊かな地域であった。ラ・トゥールは、時に戦乱の巷に生きた画家であるといわれることがあるが、少なくも青年時代までは素晴らしい平穏に恵まれた環境であった。状況が厳しくなってきたのは、1618年、30年戦争が始まった頃からであり、画家の後半生である。
さて、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生家であるパン屋は、生活には苦労のない職業階層であったとみられている。西欧社会ではパンは主食であり、パンづくりは重要な役割を果たしていた。両親にはすでに一人の子供がおり、ジョルジュは2番目の子供として生まれたことになる。そして、1600年までにさらに5人が生まれている。しかし、疫病その他で若くして死亡する率はきわめて高かった。乳児死亡を含めて、成人年齢まで達した者の方が珍しいくらいだった。ジョルジュの父親は、ヴィック・シュル・セイユの町では、かなり羽振りも良く名士でもあったようだ。
このような状況で、ジョルジュはなぜ家業の職業を継がずに、画家の道を選んだのであろう。このあたりはまったく謎に包まれている。
パン職人の徒弟修業
当時、パン屋職人になるには同職組合のメンバーであるパン屋の親方の下で、徒弟修業を経なければならなかった。パン屋の同職組合がいつ、いかなる背景で生まれたかについては確たる資料はないが、13世紀末以降多くの同職組合が形成されている。パン屋の同職組合の規約では徒弟期間を2から4年と定めていた。しかし、実際には8歳で9年の契約を親方と結んだ場合も知られている。この場合はパン職人として働くまでの長い期間を家内使用人として過ごしていたと思われる。すなわち、親方はこの少年に9年間の住居と食事を提供し,扶養することを約束している。徒弟期間については、両親の資力に対応している場合が多かった。徒弟期間が長い場合は、両親は養育費を節約できたといえる。職業によって差異はあるが、徒弟の仕組みは同職組合を背景にして、類似した制度が形成されていた。
職人としての力量
パリやその旧市街区での徒弟に入った若者の平均年齢は17・5歳、最も若い場合で14歳、最も高い場合で22歳であった。 同職組合の規約や慣習法では、親方が引き受ける徒弟の数は、一度に一人であったが、実際には複数の徒弟を引き受けていた例もかなりあった。徒弟の間は給料は支払われず、せいぜい修業の終わりに、なにがしかの心付けをもらう程度であった。徒弟期間が終わると、必要な技術の習得および期間中の品行方正を証明する一種の証明が与えられたが、多くの場合口頭であったという。つまり、親方がその徒弟の技量に「満足している」ことを公言すれば、ほとんどの場合は良かったようだ。近隣の町などで職に就くにはそれで十分だったのだろう。実際には、仕事をさせてみれば、職人としての力量が直ちに判別できたからと思われる。職人として認知されれば、賃率などもその時代に対応して慣習的に定まっていたようだ。
話題が横道に逸れるが、パン職人の世界は、他の職業と比較すると女性にもかなり開放されていたようだ。1382年のロレーヌ地方メッスの規約では女性も男性のパン職人とまったく対等に扱われていたとの記録がある。パンはもともと家庭内でつくられていたから、女性が活躍する場も多かったのだろう。
職人としての独立
徒弟を終了した若者は、大部分が職人になった。職人はセルジャン(使用人)、ガルソン、ウヴリエ(労働者)などの呼称であった。15世紀末以降になるとコンパニオンという呼称も登場している。この頃になると、親方として独立開業する環境はかなり厳しくなっていたようである。親方のところでそのまま職人として仕事をするか、他のパン屋で働くことが普通になっていた。同業者の数が多くなってきたのである。それでも、親方の息子が職人となるのはかなり有利であったようだ。中世末期から、同職組合は既存の手工業者の子供および富裕な志願者の入会だけを認めるかだけの、閉鎖的な組織へと変質していった。
職人としての賃率は、徒弟時代とは異なり、当時としては一定の社会的・生活水準を享受しうるだけの高さに設定されていた。しかし、ラ・トゥールの活躍した16-17世紀になると、中世と異なり、競争環境も次第に厳しくなっていたようだ。
他方、ラ・トゥールが選択した画家の同職組合も同様であり、新規の参入はかなり厳しくなっていた。とりわけ、画家の場合は本人の才能・技量がその成否を大きく決定していた。技量や社会的評価が伴わなければ、どうにもならない職業である。ジョルジュと息子のエティエンヌの関係を見ても、類推できるところがある。エティエンヌは、父親のジョルジュほどの天賦の才に恵まれていなかったようだ。画家の職業形成については、別に記す機会を待つことにしたい。
おそらくジョルジュはこうした環境変化の中で、家業のパン屋を継ぐよりは自分の才能を考え、画家として身を立てる道を選んだのだろう。親とは違う道を選ばせることを可能にするほど、家業も裕福であったに違いない。おそらく、どこかの工房で修業をしないかぎり、技能の習得はほとんど不可能であり、社会的認知も得られなかった時代である。もちろん、若い頃から画家としての天賦の才、片鱗が認められていたに違いない。だが、ラ・トゥールが画家としていかなる修業の途をたどったかは依然として謎に包まれたままである。
『中世のパン』目次:
序
第一章 麦畑から粉挽き場へ
第二章 パンづくり
第三章 パン屋の共同体と同職組合
第四章 フランス、パン巡り
第五章 パンの販売場所
第六章 なくてはならない市外からのパン
第七章 自家製パン
第八章 パンの価格 原則と実際
第九章 年のなかのパン屋
第十章 パン消費の数量的評価の困難
結論
* まったく別の資料だが、18世紀中頃になってもイギリスの熟練機械工の平均寿命は38歳くらいであったとの記録を読んだことがある。彼らも徒弟時代が必須だった。S.Pollard, A History of Labour in Sheffield, Liverpool University Press, 1959.
本業の仕事が忙しくなってくると、それから逃避して別のことをしたいという思いが募ってくる。原稿の締め切りなどに追われると、放り出して逃げ出したくなる。忙しさが増すほど、逃げたくなるからかなり重症である。前から聴きたい、読みたいと思っていたCDや本がとりあえず逃避の対象となる。旅行の途上などでは、日頃の関心事とはかなり離れたテーマの音楽や本が欲しくなる。
この本もこれまで「積読」の山に埋もれていた。新書になる前は、同じ出版社から確か1999年に刊行されていた。いくつかの動機から、ぜひ読みたいと思っていた。読んでみると、やはり大変面白い。詳細な内容に興味ある方は、現物に接していただくしかないが、構成だけは末尾に示しておこう。
中世のパンづくり
さまざまな点で、注目すべき点があったが、とりわけ、パンづくり、パン屋の共同体と同職組合(ギルド)、パンの価格の形成についての章に興味を惹かれた。もともと、「労働」の研究者であるため、熟練の形成の仕組みや労働の態様には長らく関心を持ってきた。もうひとつの直接的動機は、このサイトで取り上げているラ・トゥールに関連している。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年ロレーヌ公国の町ヴィック・シュル・セイユにパン屋の息子として生まれた。父親ジャンjeanの家は石工、母親Sybilleシビルの家および彼女の兄弟はすべてパン屋であった。生活必需品であるパン屋の方が暮らしが立てやすかったのだろう。ジャンは妻の家の家業を継いだ。この頃のロレーヌは、きわめて平和で豊かな地域であった。ラ・トゥールは、時に戦乱の巷に生きた画家であるといわれることがあるが、少なくも青年時代までは素晴らしい平穏に恵まれた環境であった。状況が厳しくなってきたのは、1618年、30年戦争が始まった頃からであり、画家の後半生である。
さて、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生家であるパン屋は、生活には苦労のない職業階層であったとみられている。西欧社会ではパンは主食であり、パンづくりは重要な役割を果たしていた。両親にはすでに一人の子供がおり、ジョルジュは2番目の子供として生まれたことになる。そして、1600年までにさらに5人が生まれている。しかし、疫病その他で若くして死亡する率はきわめて高かった。乳児死亡を含めて、成人年齢まで達した者の方が珍しいくらいだった。ジョルジュの父親は、ヴィック・シュル・セイユの町では、かなり羽振りも良く名士でもあったようだ。
このような状況で、ジョルジュはなぜ家業の職業を継がずに、画家の道を選んだのであろう。このあたりはまったく謎に包まれている。
パン職人の徒弟修業
当時、パン屋職人になるには同職組合のメンバーであるパン屋の親方の下で、徒弟修業を経なければならなかった。パン屋の同職組合がいつ、いかなる背景で生まれたかについては確たる資料はないが、13世紀末以降多くの同職組合が形成されている。パン屋の同職組合の規約では徒弟期間を2から4年と定めていた。しかし、実際には8歳で9年の契約を親方と結んだ場合も知られている。この場合はパン職人として働くまでの長い期間を家内使用人として過ごしていたと思われる。すなわち、親方はこの少年に9年間の住居と食事を提供し,扶養することを約束している。徒弟期間については、両親の資力に対応している場合が多かった。徒弟期間が長い場合は、両親は養育費を節約できたといえる。職業によって差異はあるが、徒弟の仕組みは同職組合を背景にして、類似した制度が形成されていた。
職人としての力量
パリやその旧市街区での徒弟に入った若者の平均年齢は17・5歳、最も若い場合で14歳、最も高い場合で22歳であった。 同職組合の規約や慣習法では、親方が引き受ける徒弟の数は、一度に一人であったが、実際には複数の徒弟を引き受けていた例もかなりあった。徒弟の間は給料は支払われず、せいぜい修業の終わりに、なにがしかの心付けをもらう程度であった。徒弟期間が終わると、必要な技術の習得および期間中の品行方正を証明する一種の証明が与えられたが、多くの場合口頭であったという。つまり、親方がその徒弟の技量に「満足している」ことを公言すれば、ほとんどの場合は良かったようだ。近隣の町などで職に就くにはそれで十分だったのだろう。実際には、仕事をさせてみれば、職人としての力量が直ちに判別できたからと思われる。職人として認知されれば、賃率などもその時代に対応して慣習的に定まっていたようだ。
話題が横道に逸れるが、パン職人の世界は、他の職業と比較すると女性にもかなり開放されていたようだ。1382年のロレーヌ地方メッスの規約では女性も男性のパン職人とまったく対等に扱われていたとの記録がある。パンはもともと家庭内でつくられていたから、女性が活躍する場も多かったのだろう。
職人としての独立
徒弟を終了した若者は、大部分が職人になった。職人はセルジャン(使用人)、ガルソン、ウヴリエ(労働者)などの呼称であった。15世紀末以降になるとコンパニオンという呼称も登場している。この頃になると、親方として独立開業する環境はかなり厳しくなっていたようである。親方のところでそのまま職人として仕事をするか、他のパン屋で働くことが普通になっていた。同業者の数が多くなってきたのである。それでも、親方の息子が職人となるのはかなり有利であったようだ。中世末期から、同職組合は既存の手工業者の子供および富裕な志願者の入会だけを認めるかだけの、閉鎖的な組織へと変質していった。
職人としての賃率は、徒弟時代とは異なり、当時としては一定の社会的・生活水準を享受しうるだけの高さに設定されていた。しかし、ラ・トゥールの活躍した16-17世紀になると、中世と異なり、競争環境も次第に厳しくなっていたようだ。
他方、ラ・トゥールが選択した画家の同職組合も同様であり、新規の参入はかなり厳しくなっていた。とりわけ、画家の場合は本人の才能・技量がその成否を大きく決定していた。技量や社会的評価が伴わなければ、どうにもならない職業である。ジョルジュと息子のエティエンヌの関係を見ても、類推できるところがある。エティエンヌは、父親のジョルジュほどの天賦の才に恵まれていなかったようだ。画家の職業形成については、別に記す機会を待つことにしたい。
おそらくジョルジュはこうした環境変化の中で、家業のパン屋を継ぐよりは自分の才能を考え、画家として身を立てる道を選んだのだろう。親とは違う道を選ばせることを可能にするほど、家業も裕福であったに違いない。おそらく、どこかの工房で修業をしないかぎり、技能の習得はほとんど不可能であり、社会的認知も得られなかった時代である。もちろん、若い頃から画家としての天賦の才、片鱗が認められていたに違いない。だが、ラ・トゥールが画家としていかなる修業の途をたどったかは依然として謎に包まれたままである。
『中世のパン』目次:
序
第一章 麦畑から粉挽き場へ
第二章 パンづくり
第三章 パン屋の共同体と同職組合
第四章 フランス、パン巡り
第五章 パンの販売場所
第六章 なくてはならない市外からのパン
第七章 自家製パン
第八章 パンの価格 原則と実際
第九章 年のなかのパン屋
第十章 パン消費の数量的評価の困難
結論
* まったく別の資料だが、18世紀中頃になってもイギリスの熟練機械工の平均寿命は38歳くらいであったとの記録を読んだことがある。彼らも徒弟時代が必須だった。S.Pollard, A History of Labour in Sheffield, Liverpool University Press, 1959.