フランスに続いて、オランダも6月2日、EU憲法条約に“nee”(否)の結論を出した。事前に行われていた主要な世論調査(Maurice de Hond)の結果でも、「反対」が55%と賛成45%を上回っていたから、「否決」はかなりの程度予想されていたことではあった。しかし、実際には「反対」が62%近くに達し、衝撃的な結果になった。
小さくないオランダの影響力
オランダはフランスと並んで、1950年代にEEC(European Economic Community)を創設した6カ国のひとつであった。それだけに選挙結果の影響は大きい。ユーロの導入を決定する協定は、最初はオランダのマーストリヒト、そしてその後アムステルダムで調印されている。初代のヨーロッパ中央銀行総裁もオランダ出身であった。オランダの人口1600万人とはいえ、その存在は大きい。今月16日に開催されるEU首脳会議は、予想しなかった大きな課題を抱えてしまった。
EU憲法条約に対する対応は否定的という意味では同じ結果になったが、フランスとオランダの国民的反応は、かなり異なるところがあった。フランスの場合、EU本部の「超リベラルな」官僚によってEUがハイジャックされているという不満があったが、オランダの場合は自国がEUという超国家の一地方に低落してしまうという不安や警戒心が高まっていた。この点は、イギリスの反応に似ているところがある。
イスラームへの不安
さらにオランダの場合、国民感情はこのサイトでもすでに報じたように(3月18日)、イスラーム社会のあり方に厳しい批判をしてきた二人の著名なオランダ人の暗殺にかかわっている。2002年5月6日の反移民の政治家ピム・フォルテインの暗殺、2004年11月20日の映画監督テオ・ヴァン・ゴッホの暗殺という衝撃が一般国民の間に強く刻みこまれている。前者の場合は、犯人はモロッコ系青年であった。後者の犯人はオランダ人青年であったが、背景が明らかになるにつれて、反移民への国民感情をあおってしまった。過激な行動に走るイスラーム原理主義者は数の上では少ないとはいえ、オランダのイスラーム教徒は100万人近く、90年以降に流入した不法移民は10-20万人に達しているとされる。
エリート層への反発
オランダは一人当たりのEUの分担金負担が加盟国の中では最も重い。オランダはもはやEUで最も富裕な国ではない。オランダ通貨ギルダーのユーロ通貨転換も、インフレを引き起こしたと考える国民が多い。こうした事態を招いたのは、EU官僚のいいなりになっている政府エリート層だという反発も強い。国民レベルでの十分な議論なしにユーロ移行、大量移民受け入れというような決定をしてきた指導者への反発である。
「並立社会」?
オランダに限ったことではないが、とりわけ、この国の移民政策の舵取りはきわめて難しくなった。西欧民主主義の価値に自分たちの価値を並べることを拒否する移民の増加によって、オランダ社会は爆発を待つ時限爆弾であるとの考えまで生まれてきた。異なった宗教・文化を持つ人々が、同じ国境の中に、互いに交わることなくただ並立しているだけという「並立社会」parallel societyという概念さえ提示されている。社会の中に隔離された別の「社会」が出来てしまうともいえる。
9.11以降、政治家は宗教的原理主義やテロイズムを恐れる国民の考えに配慮しなければならなくなった。非西洋系の「外来者」が大都市の貧困化した古い地区に集中する傾向があることを認めないわけにはいかない。国民はこうした現実に次第に不安を感じるようになる。当初は、外来者の集住地域から離れるという行動が生まれる。そして、不安は他の過激な事件と結びつけられて増大する。
不安を抱える社会
オランダ市民はゴッホの殺人者といわれるモハッメド・ボウイェリは国際テロ組織の一員であったとの捜査結果に驚愕する。そして、加害者はモロッコ出身、学校でもよくでき、地域活動も熱心だったこと、ちょっとしたきっかけで原理主義者の運動に入っていることなどの事実に改めて驚き、態度を硬化する。そして、投票などの政治的行動でも、しばしば右傾化する。
ある調査では、オランダに住むモスレムの第二世代は、モスクへ行く回数も少なく、それほど信仰に篤くないといわれる。オランダの公安機関AIVDは95%のオランダモスレムは穏健とみているようだ。しかし、残りのわずかな原理主義者の間に危険分子が隠れているかもしれないとなると、大変難しい状況が生まれる。国民は、絶えず不安感を抱えて生活することになりかねない。
「多文化主義」は幻影
これまで、いくつかの移民受け入れ国が掲げてきた多文化主義社会の考え自体が、形式的あるいは保守的にすぎるといえるかもしれない。なぜならば、移民は受け入れ国の人々や文化を変えてしまうからだ。
オランダ国民の間には、働くより福祉に依存して生きることを容易にしてきた政策によって、この国の社会的問題は悪化してきたとの理解が蔓延し始めている。10年ほど前、オランダのティンバーゲン研究所(最初のノーベル経済学賞受賞者を記念して設立)にフェローとして招かれ、しばらく滞在した頃の落ち着いた、円熟した国という印象とは、すっかり変わってしまった。
昨年半ばまではオランダはEU議長国の立場もあって、EUが協同で取り組む課題として、移民を管理することと「統合」を促進することを強調してきた。ゴッホの殺害後すぐに、オランダ政府は最初のEU規模の「統合」担当者の会議を開催した。移民援助が加盟国共通の課題とされた。
オランダは「社会的結合のための広範な取り組み」を率先、着手した。しかし、これは次の事件が起きるまでのつかの間の平穏であったのかもしれない。今やオランダはいかりを失い漂流状態に入った。 コモンセンスはまだ働くか
オランダはアムステルダム、ロッテルダムのように元来国際商業センターであり、宗教的にも新教国でありながら、プロテスタント、カソリック、ユダヤ教も共存してきた。あのトレイシー・シュヴァリエの『真珠の耳飾りの少女』やデボラ・モガーの『チューリップ熱』にも、夫と妻が日曜日、それぞれプロテスタントとカソリックの教会に通う話が出てくる。(5月15日「工房の世界を覗き見る」)それでも、社会的秩序は保たれていた。オランダは常識・コモンセンスの国であったといえる。
イギリスの経済誌The Economist(June2,2005)は、フランスの国民投票の実施に先立って、「ノン」が正解かもしれないという社説を掲載していた。イギリスは、これまでのEU拡大の過程においても、よく言えば慎重であり、自国の国益優先で、ぎりぎりの所で列車に飛び乗るような決定を繰り返してきた。今振り返ってみると、「拡大EUへの列車」はスピードが速すぎたのではないか。速度制限オーヴァーは、決して良い結果を生まない。(2005年6月2日記)