16世紀頃のヴィック・シュル・セイユ*
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール~画家の誕生まで~
画家に限ったことではないが、芸術家がその内に秘められた天賦の才を発現するには、いかなる要因が働いているのだろうか。天才的才能はいかにして見出されるのだろうか。
美術史上も謎の画家といわれてきたジョルジュ・ド・ラ・トゥールだが、新たな作品や資料の発見、研究の蓄積によって、画家の作品世界はかなり見えてきた。しかし、作品が残っていても、画家としていかなる人生を過ごしたかが、ほとんど不明な例も数多い。以前に触れたことのあるヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(c.1460-1495)などは、時代も遡るが、画家としての年譜はほとんど分からない。それらと比較すると、ラ・トゥールについては作品および人生経歴について、着実な研究の蓄積が感じられるようになった。
ラ・トゥールはなぜ画家になったか
画家ラ・トゥールの生涯は、さまざまな断片的な記録から次第に輪郭が描かれてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1953年3月14日、ロレーヌ地方のヴィック・シュル・セイユに、パン屋ジャン・ド・ラ・トゥールと妻シビル・ド・クロップソー Sybille de Cropsauxの間に生まれた。夫妻にとっては、二人目の子供であった。3月19日に洗礼を受けているが、代父は小間物屋のジャン・デ・ヴフJean des Voeufs(町の参事会員)、代母はニコラ・ムニエの妻パントゥコゥスト Pentecoste le Meusnier であった。ニコラは町の水車小屋の持ち主であった。小麦粉などを挽いてもらっていた間柄なのだろう。
セイユ川はモーゼル河の支流だが、実際に訪れてみると、とりたてて大きな川ではない。しかし、16世紀の頃は水流を利用して多数の水車があり、脱穀やなめし皮などの仕事が行われていた。今日に残るヴィック・シュル・セイユの絵を見ると、高い尖塔や立派な建物も存在し、城郭で囲まれた美しい町であったようだ。小さな町(今日の人口約1500人)で、パン屋のラ・トゥール家は、町ではよく知られた人物であったのだろう。
さて、こうした環境で生まれたジョルジュが次に歴史的な記録に現れるのは、かなり年月が経っての1616年10月20日、生地ヴィックで今度は自分が洗礼の代父を務めたという時である。翌年には結婚しており、23歳、画家としての修業は終わっていると思われる。それまでの年月をいかに過ごしたかは、今のところ推測の域を出ない。しかし、研究の蓄積で周辺的な部分からさまざまなことが浮かび上がってきた。
ラ・トゥールの家系をたどる
まず、ジョルジュが家業のパン屋を継がずに、なぜ画家の道を選んだかという問いが提示されてきた。父親は石工の息子、母親はパン屋の娘であり、父親ジャンは結婚後、石工ではなく妻の家系の家業であったパン屋を選択した。そして、息子のジョルジュはパン屋にはならず、画家の道を選んだ。家族や姻戚などに画家はいたのだろうか。この点については、研究者によって、次のようなことが推測されている。しかし、あくまで一定の資料に基づいての想像の産物である(Tribout de Morembert 1974, Tuilleir 1992)。
ジョルジュの父親であったパン屋ジャンの結婚契約書から分かったことは、妻の旧姓が、シビル・ド・クロップソー Sibille de Cropsauxであったことである。一時はシビルという名前が、貴族階層につながっているのではないかという推測がなされたこともあった。しかし、当時のロレーヌでは普通の名前であった。
その後、クロップソーという名前に関心が移った。 シビルの母親は、Marguerite Trompetteと呼ばれた。彼女の最初の夫はFrançois Mélian(or Milian) という名前で、職は公文書送達人、特使であった。第二の夫はパン屋で名前はDemange Henryであった。そこにはCropsauxとの関連はなにも見出せない。彼女の娘は最初Nicolas Bizetと呼ばれたが、1583年1月9日の結婚契約に立ち会った弁護士はSibille と記し、亡くなったMilianの娘と記している。最初の結婚契約の際には、近い親戚とされるJacquemin de Cropsal (or Cropsaulx or Cropsaux)が立会い、署名が確認されていた。しかし、彼の名は、Sibilleの次の結婚契約書には出てこない。
シビルがいかなる経緯があって、再婚したかも分からないが、この再婚で、夫は後の大画家ジョルジュの父となるJean de La Tour(dated 31 December 1590)であった。しかし、妻の名前はSibille de Cropsauxになっていた。新婦が寡婦の場合、当時の慣行では、彼女の父親の名前には言及しないのが慣例であったようだ。このことから、Georges de La Tourの母親は、実際はJacquemin de Cropsauxの非嫡出児であったのではないか。これが研究者であるTribout de Morembertが想定する内容のようだ。
この推論が正しいとすれば、ラ・トゥールは次に記す背景から、貴族の家系の血筋を非嫡出ながら継承していた可能性もある。非嫡出であることには当時はあまり重きをおかれなかった。この家系を継承してラ・トゥールは彼の父親の職業(パン屋)を継がずに、芸術家として、上層階級であった先祖の地位を継承しようと思ったのではないかと、研究者モレンベールは推測する。
貴族の血筋?
Jacquemin de Cropsaux はもしかすると、記録に残る伯爵(Count )Jean de Heemstattの城の守り役を務め、Château-Vouéの管理者agentであった人物であったかもしれないとも推定される。もう一つの可能性として研究者が記録から推定しているのは、Jean de Cropsaux の名前で毛皮商人として1570年ころヴィック・シュル・セイユに該当する人物がいたとされる。しかし、これもあくまで推測にとどまる。(こんなことまで、推測されるのはさぞかし、ラ・トゥールにとっては迷惑なことであろう。有名人が避けがたい税金ということだろうか。)
他方、妻の側の非嫡出問題ではなく、父親の方にラ・トゥール家の正当な血筋があったのかもしれないという推測もある(どうでもよいような詮索であるが、情報が集積してくると今まで見えなかったことが見えてくることもある。)
パン屋の社会的地位
さて、16世紀末にヴィックでパン屋が生業であるということで、貴族ではなくても土地の名士になりえたことは、ほぼ確かである。当時の人々の主食であったパンは、小麦あるいは精製前の穀物から確実に調達されなければならず、粉挽き、パン屋といった職業は庶民の生活にとってきわめて重要であった。このサイトでとりあげたフランソワ・デポルトの『中世のパン』にも詳しく記されているが、素材である小麦粉などの質やパンの秤量については厳しいきまりがあり、当時の職業の中でも特別の役割を負っていた。中世以来、厳しい社会的な規制が存在した裏には、計量の不正などがあったからだろう。いずれにせよ、パン屋という職業の特殊性から、町の参事役などの重要な役につく場合もあったとみられる。
ジョルジュの父親であるJean de La Tour は、明らかに裕福であったようだ。1592、96年に1回で750フランを超えるかなり大きな取引をした記録がある。かなり自由になる金を持っていたと思われる。このことは、息子を徒弟に出せるほどの資産を持っていたといえよう。
画家を生み出した社会環境
それでは、16世紀末において、息子ジョルジュが選んだ画家という職業はいかに見られていたのだろうか。これについて、客観的な評価を下す資料はないが、芸術性、精神性などの次元で活動する画家という職業には、特別な評価が与えられていたことは考えられる。
いくつかの資料によると、画家などの芸術家を生み出した家庭は、ほぼ同様な社会階層であったと思われる。ヴィックにおけるいくつかの例が明らかにされている(詳細はTuillier 1992、97参照)。
ラ・トゥールと同世代で、画家になったピエール・ジョルジュ Pierre Georgeという若者がいた。彼は、なめし皮職人であったニコラス・ジョルジュの息子であった。1592-1597年ころに生まれた。その後、画家になりローマへ修業に出かけた。そして、1616-17年にヴィックへ戻ったが、不幸にもすぐ死んでしまった。
また、1612年には、ナンシーで画家としてきわめて高く評価されていたジャン・サン・ポウルJean Saint Paulがックロード・ド・ヘイClaude de Heyなる名前の若者を徒弟として採用するために、ヴィックへ来ている。しかし、彼のその後は不明である。
さらに、ラ・トゥールの誕生の2年前、1591年に彫刻家であるフランソア・デランFrançois Derandが、ヴィック で生まれている。彼は、ジェスイットの偉大な彫刻家、Martellangeのライヴァルであった。1641年にパリのサン・ポウル・サン・ルイSaint-Paul-Saint-Louis 教会の現在のデザインをした芸術家であった。
こうしてみると、ラ・トゥールが画家としての道を選び、成功を収めた頃は、ヴィックにはそうした芸術家を生み出す風土が存在したと思ってよいだろう。その後の度重なるかなり戦火で失われたが、ヴィックには著名な建物、教会の彫刻、絵が残っている。ラ・トゥールの生涯の前半は、平穏で豊かなロレーヌであった。中世以来、さまざまな技能を継承した石工、大工、画工、鍛冶やなどの職人層も形成されていたと思われる。こうした環境で、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な天才画家も生まれ、育っていったのだろう。
*Israël Silvestre, A View of Vic-sur-Seille, Cabinet des Dessins, Musée du Louvre, Paris
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール~画家の誕生まで~
画家に限ったことではないが、芸術家がその内に秘められた天賦の才を発現するには、いかなる要因が働いているのだろうか。天才的才能はいかにして見出されるのだろうか。
美術史上も謎の画家といわれてきたジョルジュ・ド・ラ・トゥールだが、新たな作品や資料の発見、研究の蓄積によって、画家の作品世界はかなり見えてきた。しかし、作品が残っていても、画家としていかなる人生を過ごしたかが、ほとんど不明な例も数多い。以前に触れたことのあるヘールトヘン・トット・シント・ヤンス(c.1460-1495)などは、時代も遡るが、画家としての年譜はほとんど分からない。それらと比較すると、ラ・トゥールについては作品および人生経歴について、着実な研究の蓄積が感じられるようになった。
ラ・トゥールはなぜ画家になったか
画家ラ・トゥールの生涯は、さまざまな断片的な記録から次第に輪郭が描かれてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1953年3月14日、ロレーヌ地方のヴィック・シュル・セイユに、パン屋ジャン・ド・ラ・トゥールと妻シビル・ド・クロップソー Sybille de Cropsauxの間に生まれた。夫妻にとっては、二人目の子供であった。3月19日に洗礼を受けているが、代父は小間物屋のジャン・デ・ヴフJean des Voeufs(町の参事会員)、代母はニコラ・ムニエの妻パントゥコゥスト Pentecoste le Meusnier であった。ニコラは町の水車小屋の持ち主であった。小麦粉などを挽いてもらっていた間柄なのだろう。
セイユ川はモーゼル河の支流だが、実際に訪れてみると、とりたてて大きな川ではない。しかし、16世紀の頃は水流を利用して多数の水車があり、脱穀やなめし皮などの仕事が行われていた。今日に残るヴィック・シュル・セイユの絵を見ると、高い尖塔や立派な建物も存在し、城郭で囲まれた美しい町であったようだ。小さな町(今日の人口約1500人)で、パン屋のラ・トゥール家は、町ではよく知られた人物であったのだろう。
さて、こうした環境で生まれたジョルジュが次に歴史的な記録に現れるのは、かなり年月が経っての1616年10月20日、生地ヴィックで今度は自分が洗礼の代父を務めたという時である。翌年には結婚しており、23歳、画家としての修業は終わっていると思われる。それまでの年月をいかに過ごしたかは、今のところ推測の域を出ない。しかし、研究の蓄積で周辺的な部分からさまざまなことが浮かび上がってきた。
ラ・トゥールの家系をたどる
まず、ジョルジュが家業のパン屋を継がずに、なぜ画家の道を選んだかという問いが提示されてきた。父親は石工の息子、母親はパン屋の娘であり、父親ジャンは結婚後、石工ではなく妻の家系の家業であったパン屋を選択した。そして、息子のジョルジュはパン屋にはならず、画家の道を選んだ。家族や姻戚などに画家はいたのだろうか。この点については、研究者によって、次のようなことが推測されている。しかし、あくまで一定の資料に基づいての想像の産物である(Tribout de Morembert 1974, Tuilleir 1992)。
ジョルジュの父親であったパン屋ジャンの結婚契約書から分かったことは、妻の旧姓が、シビル・ド・クロップソー Sibille de Cropsauxであったことである。一時はシビルという名前が、貴族階層につながっているのではないかという推測がなされたこともあった。しかし、当時のロレーヌでは普通の名前であった。
その後、クロップソーという名前に関心が移った。 シビルの母親は、Marguerite Trompetteと呼ばれた。彼女の最初の夫はFrançois Mélian(or Milian) という名前で、職は公文書送達人、特使であった。第二の夫はパン屋で名前はDemange Henryであった。そこにはCropsauxとの関連はなにも見出せない。彼女の娘は最初Nicolas Bizetと呼ばれたが、1583年1月9日の結婚契約に立ち会った弁護士はSibille と記し、亡くなったMilianの娘と記している。最初の結婚契約の際には、近い親戚とされるJacquemin de Cropsal (or Cropsaulx or Cropsaux)が立会い、署名が確認されていた。しかし、彼の名は、Sibilleの次の結婚契約書には出てこない。
シビルがいかなる経緯があって、再婚したかも分からないが、この再婚で、夫は後の大画家ジョルジュの父となるJean de La Tour(dated 31 December 1590)であった。しかし、妻の名前はSibille de Cropsauxになっていた。新婦が寡婦の場合、当時の慣行では、彼女の父親の名前には言及しないのが慣例であったようだ。このことから、Georges de La Tourの母親は、実際はJacquemin de Cropsauxの非嫡出児であったのではないか。これが研究者であるTribout de Morembertが想定する内容のようだ。
この推論が正しいとすれば、ラ・トゥールは次に記す背景から、貴族の家系の血筋を非嫡出ながら継承していた可能性もある。非嫡出であることには当時はあまり重きをおかれなかった。この家系を継承してラ・トゥールは彼の父親の職業(パン屋)を継がずに、芸術家として、上層階級であった先祖の地位を継承しようと思ったのではないかと、研究者モレンベールは推測する。
貴族の血筋?
Jacquemin de Cropsaux はもしかすると、記録に残る伯爵(Count )Jean de Heemstattの城の守り役を務め、Château-Vouéの管理者agentであった人物であったかもしれないとも推定される。もう一つの可能性として研究者が記録から推定しているのは、Jean de Cropsaux の名前で毛皮商人として1570年ころヴィック・シュル・セイユに該当する人物がいたとされる。しかし、これもあくまで推測にとどまる。(こんなことまで、推測されるのはさぞかし、ラ・トゥールにとっては迷惑なことであろう。有名人が避けがたい税金ということだろうか。)
他方、妻の側の非嫡出問題ではなく、父親の方にラ・トゥール家の正当な血筋があったのかもしれないという推測もある(どうでもよいような詮索であるが、情報が集積してくると今まで見えなかったことが見えてくることもある。)
パン屋の社会的地位
さて、16世紀末にヴィックでパン屋が生業であるということで、貴族ではなくても土地の名士になりえたことは、ほぼ確かである。当時の人々の主食であったパンは、小麦あるいは精製前の穀物から確実に調達されなければならず、粉挽き、パン屋といった職業は庶民の生活にとってきわめて重要であった。このサイトでとりあげたフランソワ・デポルトの『中世のパン』にも詳しく記されているが、素材である小麦粉などの質やパンの秤量については厳しいきまりがあり、当時の職業の中でも特別の役割を負っていた。中世以来、厳しい社会的な規制が存在した裏には、計量の不正などがあったからだろう。いずれにせよ、パン屋という職業の特殊性から、町の参事役などの重要な役につく場合もあったとみられる。
ジョルジュの父親であるJean de La Tour は、明らかに裕福であったようだ。1592、96年に1回で750フランを超えるかなり大きな取引をした記録がある。かなり自由になる金を持っていたと思われる。このことは、息子を徒弟に出せるほどの資産を持っていたといえよう。
画家を生み出した社会環境
それでは、16世紀末において、息子ジョルジュが選んだ画家という職業はいかに見られていたのだろうか。これについて、客観的な評価を下す資料はないが、芸術性、精神性などの次元で活動する画家という職業には、特別な評価が与えられていたことは考えられる。
いくつかの資料によると、画家などの芸術家を生み出した家庭は、ほぼ同様な社会階層であったと思われる。ヴィックにおけるいくつかの例が明らかにされている(詳細はTuillier 1992、97参照)。
ラ・トゥールと同世代で、画家になったピエール・ジョルジュ Pierre Georgeという若者がいた。彼は、なめし皮職人であったニコラス・ジョルジュの息子であった。1592-1597年ころに生まれた。その後、画家になりローマへ修業に出かけた。そして、1616-17年にヴィックへ戻ったが、不幸にもすぐ死んでしまった。
また、1612年には、ナンシーで画家としてきわめて高く評価されていたジャン・サン・ポウルJean Saint Paulがックロード・ド・ヘイClaude de Heyなる名前の若者を徒弟として採用するために、ヴィックへ来ている。しかし、彼のその後は不明である。
さらに、ラ・トゥールの誕生の2年前、1591年に彫刻家であるフランソア・デランFrançois Derandが、ヴィック で生まれている。彼は、ジェスイットの偉大な彫刻家、Martellangeのライヴァルであった。1641年にパリのサン・ポウル・サン・ルイSaint-Paul-Saint-Louis 教会の現在のデザインをした芸術家であった。
こうしてみると、ラ・トゥールが画家としての道を選び、成功を収めた頃は、ヴィックにはそうした芸術家を生み出す風土が存在したと思ってよいだろう。その後の度重なるかなり戦火で失われたが、ヴィックには著名な建物、教会の彫刻、絵が残っている。ラ・トゥールの生涯の前半は、平穏で豊かなロレーヌであった。中世以来、さまざまな技能を継承した石工、大工、画工、鍛冶やなどの職人層も形成されていたと思われる。こうした環境で、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な天才画家も生まれ、育っていったのだろう。
*Israël Silvestre, A View of Vic-sur-Seille, Cabinet des Dessins, Musée du Louvre, Paris