地域の医療システムの小さな調査に関わって、日本の医療の危機的状況に改めて驚かされた。10年ほど前から実情を体験し、大変憂慮はしていたが、実態が格段に劣化しているように思えた。
深刻化する医療危機
医療費抑制、安全要求(医療訴訟)などの圧力で、労働環境が急速に悪化し、医療体制そのものが維持できなくなっている地域が続出している。医師の都市集中などで、小児科、産科などの医師が絶対的に不足していることは、かなりよく知られているが、その他の分野でも診療体制を維持できなくなり、閉鎖する病院や十分な医師がいない地域が生まれている。医療サービスの地域的不均衡の拡大が顕著に進行している。日本では、医師の数は毎年約8千人近くが新たに医師免許を取得し、総体として数は増加しているのに、地域格差の拡大はすさまじい。都市集中と過疎地での医師不在傾向がはなはだしい。医師ばかりでなく、看護師についても同様な状況がみられる。
医師と患者双方の高齢化、患者の激増などが進み、少子高齢化はボディブローのように、日本社会を次第に追いつめている。最近しばしば報じられる、高齢者の単独死が放置されていたなど、およそ文明社会であるべきでないことが起きている。東京などの大都市でも地域によっては、夕刻出会う人のほとんどが歩行に困難を伴いつつも買い物などに出なければならない高齢者や犬を散歩に連れ出している人々(これも高齢者が多い)という光景は珍しくない。こうした状況は今後さらに進行する。
医療のイギリス型崩壊?
最近、医療の第一線で活躍する医師による現状報告*を読んで、大きな衝撃を受けた。そこには恐れていた事態がやはり進行していた。詳しい点は下記の書籍をご覧いただくとして、著者小松秀樹氏によると日本の医療はイギリス型の崩壊の過程にあるとされる。それでは、イギリス型の医療崩壊とはどんなことだろうか。
手元にあるイギリスの医療実態についてのレポートを見ていると、実態はきわめて深刻である。国内の医師や看護師が医療体制を支えるにはほとんど不可能と思われるほど極度に不足している。そのため、開発途上国からの看護師に加えて、EUの他国から国境を越えてくる医師が増えているという。
国境を越える医師といっても、あの著名な「国境なき医師団」のことではない。医師が不足している所へ他国から出向いている出稼ぎ医師のことである。とりわけ、ドイツからイギリスへ航空機で診察に行っている医師が増えている。
イギリスでの医師不足はかなり深刻らしいことは、かなり以前の個人的経験でも感じていた。10年ほど前、滞在していたケンブリッジ近傍のGP(General Practitioner)の診察予約をとりつけるのにかなり苦労し、結局あきらめたことがあった。地域の人口も少ない村落のような所だったが、電話で病状を聞かれ、風邪のようだから、数日休んでいて良くならなければ改めて連絡してくれといわれたことがあった。「とにかく混んでいる」の一言だった。こうした実態に出会うと、どれだけ待ってもその日のうちに診察してもらえる日本の方がまだしもと思いがちだが、日本の実態も厳しい。子供の頃はよく見かけた、医師の往診の光景を見なくなってからかなりの年月が経った。
医師を動かす市場原理
イギリスで増えているのはドイツ、ギリシャ、チェコ、フランスなどから通ってくる医師だそうだ。文字通り国境を越えて移動する医師Mobile MDsである。彼らを根底で動かしているものは、やはり報酬の高さであるらしい。時間あたり90-500ドルといわれている。夜間や週末のサービス維持のために高いイギリス人医師を雇うより、割安運賃の航空機でヨーロッパの端から外国人医師を雇う方が経済的ともいわれている。
ポーランドでは医師の年俸は約15,000ドル程度だが、イギリスへ出稼ぎすれば90,000ドル近い。これでもイギリス国内の医師の報酬よりはかなり安いらしい。医師が国外で働くにはEUの要求する煩瑣な書類作成などの過程をクリアしなければならないが、それでも出稼ぎ医師は急増しているという。このままだと、医師が他国へ出てしまうので枯渇してしまうという国も生まれている。旧東ドイツなどでも医師の不足を訴える地域が多い。
イギリスなどでは、医師がかつてのように魅力的な職業ではなくなったことがある。長い修業期間の途中でドロップアウトしたり、製薬会社などへ職業替えする者も多くなった。
日本の場合、先述のように医師の絶対数は増えている。医師不足という減少は、とりわけ地域格差拡大という形で現れている。勤務医から開業医へと転じる医師が増えているといわれる。町中のビルの一角などで開業している医師は、夜間や土日はお休みであり、自分のペースで仕事ができるので好まれるのだろう。
さらに、より重大な問題は、医療現場の労働条件が厳しくなり、医療訴訟の続発が、医師にリスクを冒すことをためらわせたり、リスクが伴う診療領域からの静かな立ち去りを起こしているとの指摘がなされていることである。医療と倫理に関わる根本的な問題である。小松氏が主張されるよう、国民レヴェルでの問題の整理・検討と指針の提示が早急に必要ではないだろうか。
References
*小松秀樹『医療崩壊』朝日新聞社、2006年
本書は日本の医療問題に関心を抱く方々にぜひ一読を勧めたい。短いブログでは語りきれない多くの問題が提起されている。
'Long-Haul House Calls.' Buseness Week, July 18, 2005.