近着の季刊誌『考える人』(2006年夏号)を手にする。このブログが「変なブログ」であることは、自他共に認めるところだが、この雑誌もかなり「変な雑誌」である。
ふとしたことで創刊号を手にして以来、なんとなく今日まで読んできた。率直に言って、あまり強い存在感がある雑誌ではない。体裁も地味である。今回は創刊4周年記念特集というタイトルを見て、もう4年も経ったのかという思いがした。
読み手が気になる
創刊号の時から、編集者はいったいどのあたりを守備範囲にするつもりだろうと思い続けてきた。かなり茫漠としたところがあり、頼りない感じがするが、目の前にあるとなんとなく手にしている。哲学、文学から写真、イラスト、料理の領域までカヴァーされており、どんな人が読み手なのだろうかと思ったりする。書き手より読み手の方が気になるのも変である。
過去に類似の雑誌がなかったわけではない。しかし、いつの間にか消えてしまったので、この雑誌もいつまで続くかなと思わないでもない。他方で、なんとかがんばって存続してほしいという思いもかなり強い。
仕事に疲れた時や就寝前などに、何の気なしに手に取っている。アフタヌーン・ティのような存在かもしれない。作品ひとつひとつは短いものであり、密度もさほど濃くない。毛色の変わったエッセイ集と考えられなくもない。このどこからでも入り込めて、さまざまな空間をさまよえるところが良いのかもしれない。
ヴェルヌの世界を追う
このところ、比較的楽しみに読んでいるのは、椎名誠「黄金の15人と謎の島」という連載である。ジュール・ヴェルヌ『15少年漂流記』のモデルとされるマゼラン海峡の無人島を目指す旅のドキュメントである。
原作は1880年に書かれた純然たるフィクションなのだが、多くの謎や仕掛けが含まれているらしい。どういうわけか、子供の頃から漂流記が好きであった。デフォー『ロビンソン・クルーソー』はいうまでもないがウイース『スイスのロビンソン』、ヘイエルダール『コン・ティキ号漂流記』など、次々と愛読してきた。 「ロビンソン・クルーソー」は、経済学その他のモデルにも使われ、一時はかなりのめりこんで読んだこともあった。その他の漂流記もそれぞれに楽しみがあり、同じ本を何度も読んだ。
ジュール・ヴェルヌの『15少年漂流記』 (原題はDeux ans de Vacances、二年間の休暇、1880年)は、大人も子供もあきさせない面白さを持っている。多数の訳書があるが新潮文庫版は、心理学者波多野完治氏の翻訳であることに気づいて、不思議な縁に思い及んだ。いずれ書くことがあるかもしれない。
しばらく忘れていたが、この連載を目にして再び興味が湧き上がってきた。ヴェルヌを近く引っ張り出してまた読んでみよう。こんなことでつながっているこの雑誌、私にとってやはり変な存在である。