日本に限ったことではないが、移民(外国人労働者)についての世の中の関心は、時代の移り変わりと共に大きな波動を示してきた。送り出し、受け入れの双方について、決して一方的に移民歓迎あるいは移民反対という流れが貫徹していたわけではない。かなり頻繁にストップ・アンド・ゴーの局面を繰り返してきた。しかも、流れの方向が突然に変化することも少なくない。その象徴的例が、9.11同時多発テロの勃発であった。このひとつの出来事で、世界の主要国の移民政策は大きな衝撃を受け、顕著な方向修正を迫られた。
移民で自国を形成してきた世界最大の国アメリカは、21世紀になってからも受け入れ移民の数と質の両面において複雑な問題を抱え、移民政策は重大な国民的課題となっていた。外交政策の失点は取り消しがたく、任期終了を目前としたブッシュ政権は、移民政策を最重要な政策課題と考え、破綻していた政策の立て直しを図った。しかし、「包括的移民政策」として大きな期待をかけてきた法案も結局任期中に成立は期待できなくなり、次の政権の課題として先送りになってしまった。
この原案の主要推進者のひとりが、共和党員ながらリベラルなスタンスをとるマッケイン上院議員だった。しかし、仮にマッケインが大統領に選ばれたとしても、当初の原案のような形で成立するとは思えない状況になっている。 政策の空白期間に、現実は急速に変化している。連邦法レベルでの基本政策が不在な間、州や地域レベルでの個別的対応がさまざまに進んでいる。新政権が発足すると、その調整が大きな問題となるだろう。
EUでもようやく統一的な移民政策、言い換えるとEU共通のルールが生まれつつある。2010年から、EU加盟国による退去命令を拒んだ不法移民を対象に、子供を含めて最長1年半の身柄拘束や5年間までの再入国禁止が各国に認められる。不法移民の摘発が大幅に強化され、スペインが2005年に多数の不法移民を合法化したような措置も認めない。EU砦の姿は一段とはっきりする。しかし、国境管理の重荷は拡大したEUの最前線が担うことになる。建造する側は逆だが、現代版「万里の長城」のような印象だ。
落日の色覆いがたい日本では、このところ移民(受け入れ)政策への関心が高まっているようだ。自民党議連などの新たな政治的動きも出て、2,3のメディアが取り上げている。その背景には、厳しい人口減少時代を迎えて女子と高齢者の労働市場参加促進だけでは、対応ができなくなってきたという事情もある。社会的には必要だが、日本人が就きたがらない仕事も増えてきた。現実には、多数の外国人労働者がこうした分野で働いている。他方、外国人の定住化が進み、縦割り行政の弊害も露呈、政策の手詰まり感も強まっている。結果として、漸く問題の重大さが認識されてきたようだ。
政治領域では、自民党の外国人材交流推進議員連盟(以下、議連)の動きに注目が集まっている。その基本的視点は、移民(外国人)の力を借りて人口減少危機、そして労働力不足に対応しようという考えのようだ。外国人の定住を前提に、外国人に公的教育の機会を提供して熟練労働者に育てるほか、留学生も100万人に拡大して、日本での就職・定住を促し、今後50年間で人口の10%(約1000万人)を移民が占める「他民族共生国家」を目指す。そのために「移民庁」(仮称)を創設し、縦割りの外国人政策を一元化するなどの提案をしている。
こうした展開を見ていると、これまでの乱立していた議論が政策項目として次第に整理されてきている印象はあるが、長らくこの問題に関わってきた者の一人としては、とりたてて新味は感じられない。課題の羅列に留まっている。さらに、改革の速度も緩慢だ。海外からは「奴隷労働」とまで酷評されている「外国人研修・技能実習制度」ひとつとっても、まともな形になるまで何年かかることやら。そればかりか、依然として視野狭窄としか思えない政策スタンスが相変わらず横行し、採用されている。
問題点は枚挙にいとまがないのだが、ひとつは、「グローバル化」、「国際化」への対応という、いつもながらの枕詞が掲げられながら、自国の問題しか視野に入っていない。検討の対象が送り出し国や移民の側には、おざなりにしか向けられていない。移民を「入れてやる」出入国管理政策から、「来てもらう」政策へ転換すると、耳障りのいい表現に変えてみても、内容はこれまでの議論とほとんど変わりがない。(教育、地域、人権など筆者がながらく「社会的次元」と呼んできた領域の問題が政策課題へ組み入れられてきたことは評価できるのだが。)「循環的移民」circular imigration、「経済連携交渉」EPAと舞台装置を改めても、実質的対応面にほとんど変化が感じられない。
今日の世界の先進国で、移民(受け入れ)で国を立て直そうと標榜している国はない。(送り出し国で移民立国を目指してきた国は、フィリピン、メキシコなど、いくつかあるが、とても成功しているとはいえない。) こうした状況の中で日本がことさら「移民(受け入れ)国」となることを宣言するのはいかなる意味を持つのか。改めて国民的議論が必要だろう。
人口減少や少子高齢化に伴う問題を、移民に頼ることで対応しようという発想は、2000年に国連人口部によって提示されたが、日本の識者の間でも「数合わせ」として評価されなかった「補充移民」のアイディアとさほど変わりがない。受け入れる移民対象を高度な質の労働力に限定しているというだけのことだ。
移民あるいは国際労働力移動という現象は、送り出し国と(出稼ぎ)移民、そして受け入れ国とその国民という双方の次元を視野に入れて初めて正しく理解される。しかし、日本の議論はいつも自国の利益、それもしばしば特定のグループの利害が隠された「国益」の議論になりがちだ。
移民という現象は、決して受け入れ国側の需要要因だけで定まっているいるわけではない。移民の労働の成果がいかなる形で、彼らの母国の発展へとつながるかが組み込まれない限り、真の意味での「総合的移民政策」とはなりえない。日比両国間で経済連携協定を締結しながらも、フィリピン上院で日本への看護師送り出し案が紛糾、頓挫しているのは、その点を危惧しているからだ。フィリピンも日本に貴重な人材を送り出しても、高い障壁を越えねばならず、結果として「使い捨て」にされるのではないかという懸念が高まっている。本来、こうした人材は、自国民の医療・看護サービスを担うためにその国が育成してきたのであり、海外出稼ぎは次善の策なのだから。
受け入れ国が自国の問題への対応だけを考え、送り出し国の経済・厚生条件の改善が含まれない政策は、狭くなった地球では受け入れられない。関係国が共に利益を享受しうる政策視点が含まれることがどうしても必要だ*。
さらに、移民の現実の動きも大きく変化している。IT技術の発見で、仕事自体がある国から別の国へと、オンラインで移動してしまう動きが急増している。東京のオフィスで一日の仕事が終わった時、残った仕事を地球の反対側の国へオンラインで送って、翌日までに作業して送り返してもらうというようなことは、いとも簡単にできるようになった。いわば「見えない移民」「ヴァーチャル移民」の増加だ。しかも、その移動は瞬時に行われ、実態の確認も困難だ。どれだけの仕事量が移転しているのか、把握がきわめて難しい。伝統的な肉体を持った人間が国境を越えて移動するという移民の世界のイメージは大きく変容している。オフショアリングの一形態とみられるこうした変化も、急速に進んでいる。
これらを視野に入れると、世界の移民市場(国際勞働市場)は、今日かなり大きな転換点にあるといえる。旧来の移民労働観に依存していたのでは、大きな流れを見失うことになりかねない。近年の新たな変化をバイアスのない目でフォローする必要があるだろう。
References
「動き出す移民政策」『エコノミスト』(毎日新聞社)2008年6月17日
「労働開国」『エコノミスト』(毎日新聞社)2008年1月15日
『専門的・技術的労働者の国際勞働力移動~看護・介護分野とIT産業における主要課題』(JILPT資料シリーズ No.19)
* こうした新たな変化を調査・分析した上記のような小さな調査報告でも、日本労働政策研究・研修機構(JILPT)、厚生労働省などの偏狭な判断で、平成17年度以降今日まで公開が差し止められてきた。このお役所、いまや満身創痍。日本の「移民政策」といってみても、とても簡単には生まれてこない。