Johannes Vermeer
Lady with Her Maidservant Holding a Letter (detail)
c. 1667 Oil on canvas Frick Collection, New York
ANAの機内誌『翼の王国』に掲載されていた福岡伸一氏の「アメリカの夢 フェルメールの旅」の続きを読む。6,7,8月の3回連載の中編である。
前回記したように 、アメリカに移ったフェルメールの作品をニューヨークに長らく居住した野口英世が見たかという仮説を、福岡氏がいかに検証するかという点に興味があった。
結論からいうと、拍子抜けという感を免れない。福岡氏の推理は、次のようなものだ。野口英世のニューヨーク在住年数は20数年と長く、自分の研究の場であったロックフェラー研究所の近くにあったフリック邸の存在を知らないわけはないはずだとする。ちなみに、フリック Henry Clay Frick (1849-1910)は、鉄鋼業で巨富を成した人物であり、このブログにも記したことがある。今日「フリック・コレクション」The Frick Collection として知られる絢爛たる美術作品を購入、所蔵していた。
この豪邸では、フリックがフェルメールの作品などを入手した折には、しばしばパーティなどを催し、著名人などを招待していた。当時すでにノーベル賞候補に名が上がるほどの著名人であった野口英世が、フリック邸に招待された可能性はかなり高い。おそらく、こうした機会に野口はフリック邸で、フェルメールを見たに違いないという推理だ。
野口英世は、1911年、結婚を機に新居を設け、同じアパートに住んでいた日本人画家(後年写真家)の堀市郎から筆や絵の具などをもらい、絵を描くことを唯一の趣味としていたようだ。他方、フリックの死後、娘が大邸宅を改装し、それまで収集してきた美術品が、美術館として一般公開されたのは、1935年であった。野口英世はこれに先立つ7年目、アフリカで黄熱病に感染し、世を去っていた。したがって、野口英世がフェルメールを見たとするならば、作品が未だフリックの私邸に飾られていた時期である。
ここまでの福岡氏の推論は、かなり思いつきの感を免れないが、可能性としてはありうることだ。しかし、仮説は推論、実証の詰めを欠いている。フリック・コレクションのアシスタント・キュレーターに会い、当時の招待者の名簿も現存していることを聞きながら、時間の関係か?確認されていない。これでは、まるで宝の山の前まで行きながら、手をこまねいて帰ってきたに等しい。科学者としては、仮説を立てたからには、結果のいかんを問わず、実証結果までたどりついてほしかった。福岡氏は、今後の可能性を残したと記しているが、読者としてははぐらかされたようで、満たされない思いだ。
もっとも、野口英世がフェルメールの作品を見たとしても、それによって野口英世観が変わるわけでもない。この時代、アメリカには野口英世以外にもかなりの数の日本人がいたし、その中には画家も含まれていた。フリック・コレクションに限らず、この時代に次々と公開されていった富豪の美術品を、彼らがどう見ていたかの方が知りたい。
野口英世の描いた作品の実物は揮毫以外に見たことはないので、憶測にすぎないが、絵画作品を写した写真などを見る限り、かなり自己流に近く、フェルメールなど特定の画家の影響を受けている可能性はきわめて少ないようだ。恐らく野口英世は、同じアパートに住んだ日本人画家・写真家で、将棋の相手でもあった堀市郎から絵画制作の手ほどきを受けたのではないか。
さて、フリック・コレクションは、これまで何度か訪れたことがある。ニューヨークへ行く機会があると、やはり見ないではいられない場所のひとつだ。その規模は実際に訪れてみると分かるが、1ブロックすべてを占めるほどの広大なものだ。大富豪の邸宅がいかなるものであったか、実際に訪れてみると、その壮大・華麗さに圧倒される。邸内には豪華な噴水、パイプオルガン、ロココ調の絢爛たる部屋などもあり、アメリカ資本主義黄金時代のひとつの象徴のような感じがする。フリックは、かつては志を共にし、鉄鋼会社を共同経営していたカーネギーとも袂を分かち、「カーネギーの家など炭坑夫の小屋」に見えるほどのものを造るのだといっていたらしい。
フリックは企業経営、株式投資などによって得たありあまる資金にまかせて、美術品の収集にのめりこんだ。しかし、彼が真に美術品を見る目があって、そうした行動をしたのか、疑問がないわけではない。初期に集めたバルビゾン派の作品などは、あっさりと売却されてもいる。
実は、私が最初にフリックの名を知ったのは、この美術品コレクションのためではなかった。若い頃から「コークス王」といわれ、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの鉄鋼会社に共同経営者として迎えられた経営者としての側面からであった。そして、アメリカ労働運動史上、最も暴力的な争議のひとつとして記憶されている「ホームステッド大争議」 Homestead Lockout (1892年)などでの非情な経営者としての姿である。フリック自身、この争議の過程で暗殺者に襲われるが、一命を取り留めた。
こうした非情な経営者としてのフリックと美術品収集に没頭したフリックのイメージは、最初はなかなか結びついてこなかった。この話、実はかなり興味深いのだが、長くなるので今日はこれでおしまいに。
* 福岡伸一「アメリカの夢 フェルメールの旅 中編」『翼の王国』2008年7月