Pieter Saenredam. Interior of the Church of St.Bavo in Haarlem, 1648. Oil on panel, 2x1.4m. National Gallery of Scotland, Edingburgh.
一枚の絵とはいえ、つぶさに見ると、時代の変化の深部が垣間見えることがある。前回も取り上げた教会画という17世紀オランダ美術のジャンルもそのひとつだ。遠く過ぎ去った時代の息吹きを、改めて追体験、実感することもできそうだ。
宗教改革という基本的には精神世界での大変革が、広く人々の生活様式を変え、さらに波及して美術のあり方にまでいかなる影響を及ぼしたか、興味は尽きない。宗教間の抗争は、キリスト教の宗教改革に限らず、しばしば激烈な対立となる。宗教改革におけるカトリックとプロテスタントの対立も、今日の想像を超えるすさまじい様相を呈した時もあった。
オランダでプロテスタントの主流となったカルヴィニズムは、宗教世界における絵画、偶像の役割に否定的だった。しかし、それにもかかわらず、17世紀オランダ美術界は繁栄の時を迎えていた。なぜだろうか。
この点を解明するには、この時代を支えた基軸的価値観の大転換の次元まで立ち入らねばならないようだ。そのことを見定めるひとつの場が教会である。 サーエンレダムなどの教会画が示すように、当時のプロテスタント教会内部には見通す限り、祭壇や聖像らしきものは、ほとんど見えなくなった。このハールレムの聖バーヴォ教会(上掲)も、1566年の偶像破壊運動 iconoclasm の嵐が襲う前は、63の祭壇、そして多数の聖像や装飾で堂内が覆い尽くされていたという。 (外観参照図)
カルヴァン派の場合、宗教的指導者であったカルヴァン自身が聖像や祭壇画などに対して、厳しい考えを持っていた。ルターと比較してもきわめて厳格であった。
カトリック、プロテスタントの対立は、基本的には信仰の根源をどこに求めるかという点にあった。聖書は論争の中心的対象だった。ルターもカルヴァンも聖書に絶対的権威を見いだし、信仰の基点を置くことを主張してきた。そのために、分かりやすい言葉で、神の教えを説くことができる牧師と聖書の大衆への普及・拡大が強調された。とりわけカルヴァン派では、牧師はカトリックのように神と信者の間に立つ代理人や仲介者ではなく、信徒の間で最もよく聖書を学び、理解した人と位置づけられた。
カルヴァン派は、カルヴァンの説くところに従い、聖人の像、絵画などを排除することに努め、その動きはしばしば暴力的な「聖像破壊運動 」iconoclasm の形をとった。ネーデルラントではとりわけ1566年に町から町へと教会、修道院などで聖像の破壊が拡大していった。こうした異端排斥の実態は、カルヴァン派が市政などの主力を握ったジュネーヴの場合のように、きわめて苛酷で容赦ない対応となった。
その後、新教側の教会が次第に勢力を拡大し、組織化が進むにつれて、暴力的破壊は次第に減衰をみせる。しかし、カトリックが支配的であった時代と比較すると、絵画や立像、装飾品への需要のあり方は大きく変容した。
カルヴァンの『キリスト教綱要』(1536年)が発行されると、改革派教義の体系的理論書となった。カルヴァンの神学は、ルター、ツヴィングリ、プツァーらの思想を継承したものだが、『綱要』が判を重ねるごとに深化していったが、同時にルターやツヴィングリなどの考えとも離れていった。
ほとんど聖人像や壁画など装飾の類を排除したカルヴァン派プロテスタント教会で大きな役割を占めたのは説教壇であった。牧師は説教壇から教会へ集まった人々へ教えを説いた。このハールレムの聖バーヴォ教会(上掲)は、カルヴァンが‘中立的な’教会の有り様として認めていたようだ。 カルヴァンがパイプオルガンなど楽器による音楽の位置づけをいかに考えていたのかは、明らかではない。絵画や偶像のように積極的な排除の対象とはされなかったようだ。イメージほど布教の障害とはならないと考えられたのだろうか。 この絵のように、オルガンが撤去されることなく置かれている情景などを見ると、否定されることなく黙認されていたのではないかと思われる。
当時の教会画には、プロテスタンティズムによって刷新された教会の新たな価値観を印象づけるためか、人物などが描きこまれていない場合もある。描かれていても、上掲の作品のように、右隅に小さく描かれ、教会堂の規模がやや誇張されていることも多い。そして、全般にカトリック教会の重厚さ、華麗さなどを備えた旧来の宗教的雰囲気が薄れ、公会堂のような空気が漂っているのが感じられる。プロテスタントの教会では、カトリック教会に見られた宗教色に代わって、人々が集う場としての空気が醸成されていることを感じる。
事実、当時のプロテスタント教会は、次第に人々の集まる公共の場としての役割も強めていたようだ。ウィッテが描いたデルフトの著名な教会堂の作品を見てみよう。あれ! この子供たち、そしてワンちゃんは神聖な場で、いったいなにをしているのでしょう (落書きは人間のさが?)。
こうした作品が制作され、容認されたことは、教会が開かれた公共の場と変化し、新たな市民たちの教会イメージが生まれつつあることを如実に示しているようだ。そこは「イタリアの光」はもはや感じられず、明らかにオランダ、ネーデルラントの光が差し込む空間となっていた。教会画を含むオランダ美術については、「不毛な自然主義」という厳しい批判も提示されたが、この問題についてはいずれ改めて考えよう。
Emmanuel Witte. Interior of the Oude Kerk, Delft 150-52. Oil on panel, 48 x 35 cm, Metropolitan Museum of Art, New York.(detail)
Reference
Mariet Westermann. A Worldly Art: The Dutch Republic 1585-1718, Yale University Press, 1996.
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