時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ハドソン川探検記念日

2009年07月21日 | 回想のアメリカ

 

 少し旧聞になってしまうが、7月4日はアメリカ独立記念日だった。さらにあまり知られていないが、この日はニューヨーク市にとっても特別の日であった。あの航空機着水全員救出の出来事で有名になったハドソン川の探検記念日だ。

 北米大陸で知名度の高い河川というと、西の方では怒濤のごとき赤い水で知られるコロラド川、中南部ではマーク・トゥエインの川として知られる滔々と流れるミシシッピ川、東部へ来ると、ハドソン川ではないだろうか。アメリカ・カナダの国境を分けるセントローレンス川も、大変興味深い川だ。とりわけ、ハドソン川とセントローレンス川は、4世紀近いアメリカの歴史と文化に深く関わってきた。

 ハドソン川については、セントローレンス川と共に、特別の思いがある。世界の著名な河川では、ほとんど唯一河口から源流に近いところまで流域を
旅をした経験があり、多数の思い出が残っている。この二つの川がアメリカ経済史に果たした役割はきわめて大きい。その一部はブログにも少し記したことがあるが、幸い興味深いことがかなり記憶に残っている。少しずつ記すことにしよう。

五大湖、大西洋へつながる水運
 ハドソン川を河口から遡って行くと、小さな運河の開鑿などによって、オルバニー、トロイなどを通り、セントローレンス川経由でモントリオール、ケベックまで水路で旅することができる。具体的には、南の方から、ハドソン川の主流を経由し、シャンプレイン運河、リシリュー川、シャンブリー運河を航行して、セントローレンス川へとつながっている。
 
 
セントローレンス川の河口付近はヴァイキングが、ハドソン川の河口付近はイギリス、スペイン、ポルトガルの漁船などが、1400年代に発見していたのではないかと推定されている。1524年にはフランス王に雇われたイタリア人航海者ジョヴァンニ・ダ・ヴェラザーノ Giovannni da Verrazano が,ニューヨーク、ロードアイランドなどの沿岸を航海したようだ。彼の名前はニューヨーク、ハドソン川の河口の大橋梁の名前として残っている。

 ハドソン川の河口は、世界最長の橋といわれるヴェラザーノ橋 Verrazano Narrow Bridge、自由の女神像などで著名だが、河川としての計測の基点は、上流へ少し遡ったPort Imperial Marina というマリーナに置かれていて、ここから上流に向かってプラス、下流に向けてマイナスとして計られている。

 

 マンハッタンの河口から、ケベックまでは水路で568マイルほどの距離だ。ハドソン川は大変変化に富んだ河川であり、その流域は産業革命期以来の多くの企業、史跡、そして自然の美しさに恵まれていて、さながらアメリカ史の一齣一齣が刻み込まれているような思いがする。

 

ヘンリー・ハドソンの航海 
 17世紀初め、オランダ東インド会社はイギリス人
探検家ヘンリー・ハドソン Henry Hudsonを雇い、1609年中国に向けて北西海路の探検を依頼した。当時の探検家といっても多くは一攫千金の野望に駆られた人物も多く、他方新大陸をめぐる各国の利権が渦巻く時代だった。ハドソンは新たな海路の発見には失敗したが、ハドソン川の探検を行った人物として後世に名を残すようになった。ハドソン川、セントローレンス川流域の探検については、ジャック・カルティエ、サミュエル・ド・シャンプレインなどが探検家として知られていて、それぞれ今日にその名を地名にとどめている。

 ハドソンは1609年にこの川をさかのぼる探検行を行い、後に彼の名は川の名前として歴史に残ることになった。しかし、実際にはカルティエ、シャンプレインなども、ほとんど同時期に探検していた。大変興味深いことに、シャンプレイン(Lake Champlainとしてその名が残る)は、ハドソン川を北から南に向けて、そしてハドソンは南から北に遡行しており、その差はほとんど2ヶ月くらいだったらしい。北米の植民時代、ハドソン川流域は、ポルトガル、フランス、オランダ、イギリスなどが競って探検する地域であり、激しい探検競争を行っていたのだ。

 これらの探検家たちによる航海は、狐、鹿、ラッコなど高価な毛皮や木材の交易につながり、オランダの場合は、ビーバーウイック 
Beverwick(今日のオルバニー)に最初の拠点を置くことになった。
 
開発と汚染
 ハドソンは、この川は魚類が豊富であり、沿岸の植物や森林も大変美しいことを見出した。その後、ハドソン川の開発は急速に進み、多くの環境破壊もあった。沿岸に発達した企業は、ハドソン川を廃棄物の投棄場所に使った。ある時期、ハドソン川のある流域には魚などの生物が一切生息しえなくなったこともあった。確かに、何度も訪れたが、上流の一部を除き、水がきれいな川という印象はない。

 1960年代には、環境保全の監視者などが、状況改善の努力を始めた。1972年にはクリーン・ウオーター法 Clean Water Actが制定され、汚染を禁止した。1984年には連邦環境保全局が、ハドソン川の流域200マイルをスーパーフアンド・サイトとして、特別の配慮を必要とする地域とした。こうした努力の結果、ハドソン川の景観は改善され、魚類も戻ってきた。一時はいなくなったハゲタカも、沿岸に巣を作るようになった。魚卵がキャヴィアとして珍重されるちょうざめの養殖を開始した記事をどこかで読んだ記憶もある。

 しかし、問題が解消されたわけではない。流域のウエスチェスターWestchester にはインディアン・ポイントといわれる原子力発電所がある。この発電所は、一日95億リットルの川水を冷却水として使用する。発電所が使用した水は、再びハドソンに戻される。しかし、河川の監視者によると、この温水によって多くの魚類、オタマジャクシ、魚卵などが生息できなくなったといわれている。発電所側はそうした事態は発生していないとしている。また、温度ばかりでなくPCB、発がん性のある毒性の化合物などが流域から流れ込んでいる。

 ニューヨーク市の下水処理システムもかなり老朽化し、豪雨などがあると対応できなくなってきた。そして近年ハドソン川の評判は低迷していた。あの奇跡的な航空機着水の快挙は、ハドソン川の存在を世界に知らしめた出来事となった。

 正確にいうと、ハドソンはこの川を最初に発見したわけではない。いうまでもなく、数千年にわたり先住民族のアルゴンクイン族とイロクオイ族がこの地域に広く展開して居住していた。実際には数百の部族がいたようだ。 

 今年9月には、ハドソンの探検船 Half Moon(二本マストの帆船) のレプリカが建造され、ハドソン川探検の再演がなされることが予定されている。


コメント
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