自販機の氾濫
イギリス人の友人が日本に来て、町中の自動販売機の多さに驚いていた。確かに大都市などでは100メートルおきくらいに、清涼飲料水、コーヒーなど各種のドリンクの自販機が林立している。きれいに管理されているものもあるが、汚れ放題で商品の確認がやっとというものもある。夏には冷たい飲み物、冬には暖かい飲み物など、管理も大変だと思う。
半世紀近く前に、サンフランシスコで自販機の店オートマット(自動販売機による24時間営業カフェテリア)を経験した時は、なるほど便利なものだと感心した。しかし、入るのは一寸勇気がいる雰囲気だったし、これが食生活の未来の姿のひとつかと思うと、あまりにも味気ない感じを否めなかった。
その後の日本でこれほどまでに自販機が普及するとは予想しなかった。日本中で、これだけの数の自販機を日夜動かすために、どれだけの発電所が動いていることか。自販機は確かに便利だが、明らかに過剰な設置ではないかと思う。しかし、ほとんど真剣に議論の対象とされたことがない。日本人はあまりにもその利便性に慣れすぎてしまっているのではないか。省エネ、都市の美観という点からも、多すぎる自販機はなんとか適正な配置にできないだろうか。日本に設置されている自販機は、2008年時点で526万台(内、切符など券類自販機は42,800台)との統計がある。
目を見張る進歩
日本のように変化の激しい現代社会では、多少のことでは人々は驚かなくなっている。鉄道などの駅の改札口に駅員の姿が見えなくなって長い年月が経過した。銀行へ行っても、かつてのようにカウンターで行員と話す機会は激減した。ほとんどの仕事は、ATMですんでしまう。最近の自動改札のシステムなど、確かに画期的だ。あの磁気カードの認識の早さは驚異としかいいようがない。大都市ラッシュ時の雑踏など、とても人手では対応できない。日本のような大量輸送システムが発達していないイギリス人の友人は、ラッシュ・アワーの駅頭の改札状況を見て仰天し、写真を撮っていた。
失業が深刻化すると、ひとつの原因として、仕事が中国や東南アジア諸国など低賃金の国へ流出しているとされる。たとえば、アメリカ人にはそうした考えを持つ傾向が強い。しかし、そればかりではない。機械化・ロボット化を通して、顧客へ仕事を肩代わりするセルフ・サービス化が進行している。しかし、その評価はなかなか難しい。
セルフサービス化の評価
高齢者は機械操作が苦手な人が多く、窓口で係員と対面で用事を済ませたいと思う人が多いようだ。ATの前で立ち往生している高齢者をよく見かける。年金受給日の郵便局の窓口などは長蛇の列だ。他方、若い世代は機械に慣れており、対面での処理はむしろ煩わしいと思うのか、自分でやることを選択する。
自動化は確かに設置側には有利だ。最近はスーパーマーケットでも、レジに並ばず、顧客が自らバーコードを機械にかざしてチェックアウトするセルフ・スキャンニング・レジ・システムを導入するところも現れた。1台の機械は従業員25人分の仕事をするという。しかし、レジ係の人と話をするのを楽しみにしている客も多いようで、予想したほど普及しないらしい。オックスフォードのスーパーの店先の片隅で、毎朝紙コップでコーヒーを飲みながら、世間話をしている高齢の人たちを見ていた。きっと一日で、ほとんど唯一話をすることができる時間なのだろう。
日本の労働力が急速に減少してゆくことを考えると、機械化は不可避でもあり、望ましいことかもしれない。しかし、セルフサービス化は、消費者にかなりの努力を要求する。最近は機械の画面表示などもかなりわかりやすくなったが、対応に苦痛を感じる人々も多い。
ガソリンスタンドでも、セルフ・サービス化が浸透するかに思えたが、2割程度らしい。撤退もあると聞く。10年ほど前、イギリスで暮らした時に最初は面食らったが、すぐに慣れた。セルフ方式しかないとなれば、否応なしに使わざるをえない。
こうしたセルフサービス化の結果は、なにをもたらすのだろうか。セルフサービス化によって消費者に転嫁された努力の部分は、いかなる形でサービス価格の低下に反映するだろうか。「セルフサービス化社会」については、かなり以前から語られているが、雇用との関連でも多くの問題が未検討のままに残されているように思われる。