時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

窓外の世界: 少女はなにを見ていたのか

2005年02月12日 | 仕事の情景

  
   

 写真の拡大はクリックしてください

 


ひとりの少女が窓の外をじっと眺めている。背景はどうも工場の一隅のようだ。しかし、何の機械だろうか。実は、ここに紹介する写真は20世紀の初めにアメリカの労働現場、「仕事の世界」を数多く撮影したルイス・ハイン Lewis Hineが、1909年にアメリカのノース・カロライナ州の工場(Rhodes Mfg. Co.)で働く少女を撮影したものである。   

「外の世界を見る一瞬」(A Moment Glimpse of Outer World)と題するこの小さな写真は、アメリカ繊維産業の調査をしている中で見つけたものだが、それこそ一瞬にして私を惹きつけてしまった。被写体となった少女は当時11歳で、それまで1年間、工場で働いていた。少女が立っている場所は、明らかに綿紡績工場の中である。背後にある機械から、彼女が当時の繊維工場で「女子の職場」とされていたスピナー (spinner)と呼ばれた仕事についていたことが分かる。

働く多数の子供たち  
綿紡績工場では多数の子供たちが長時間の労働に従事していた。大体,週6日、1日11-12時間、立ちっぱなしの過酷な労働であった。作業環境は大変悪く、綿くずが換気の悪い工場内に飛び散り、充満していた。温度と湿度を高く保つほど、糸が切れにくいため、工場の窓は通常閉め切られていた。その中で彼女たちは機械の横の通路を行き来し、回転する糸巻き機の糸が切れていないかを注意し、切れている場合にはできるだけ早く糸の先を見つけ出し、つながなければならなかった。

劣悪な労働条件  
稼働率を維持するために、繊維工場の機械は連続運転されていた。作業の間は、機械から離れることができません。製品の品質は、彼女たちの若い眼と細い指に大きく依存していた。背後にはいつも管理者の目があった。湿気が多く、蒸し暑い、騒音に満ちた劣悪な労働条件の下で、子供たちが工場災害や病気になる頻度は大変高かった。綿紡績工場で働く子供たちが、生きて12歳を迎える数は、ふつうの子供の半分以下であったといわれている。  

子供たちの親の賃金も大変低く、それだけではとても生活できないために、親と一緒に工場に出ていた。時々査察にやってくる工場監督官に見つかると、「たまたま今日は、親につれられて来ていただけです」などと答えて、見過ごしてもらっていた。 

少女の視線の先  
この写真の少女は、文字通り機械に追い回されるような時間の中で、ほんの一瞬と思われるが、窓外に視線を向けている。多分、機械が故障するかして、思いがけない静止の時間が生まれたのだろう。ルイス・ハインの写真を含めて、当時の工場の状況を記録した写真は、過酷な労働を反映して、被写体の労働者の表情にも暗い陰が落ちているものが多いのだが、この写真は例外といえる。質素だが、こざっぱりとした作業衣を身につけ、聡明さを感じさせるしっかりとしたまなざしで窓の外のなにかを見つめている。いったい彼女の眼に映った光景はなんだったのだろうか。  

こうした少女たちが工場生活を送った時代のすぐ後、世界は激変した。大恐慌を間に挟む二度の世界大戦を経て、今日の時代につながっている。彼女が見ていたものは、なんであったのだろうか。想像はとめどなく広がって行く。



Photo:
Courtesy of National Archives Photo NWDNS, 102-LH-249. Rhodes Mfg. Co. Spinner, A moment’s glimpse of the outer world, N.C., November 11, 1908.

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ティールーム開設の背景

2005年02月11日 | 午後のティールーム

「リツォーリ」書店の店内

 こうしたコーナーを開店するについては、店主としては多少の思い入れがないわけではありません。以前同じ名前で開設していたHP上でも記しましたが、それはニューヨークのある書店についての個人的思い出につながっています。

「チャールズ・スクリブナー」書店の思い出
 かつて、アメリカで大学院学生であった1960年代末から、右往左往して教師という職業に就いた後にも、ニューヨークに出かける機会があると、なにはともあれ、一度は訪れないと落ち着かない書店がありました。残念ながら今は閉店しまった「チャールズ・スクリブナー書店」Charles Scribner’s Sonsのことです。『グレート・ギャツビー』、『老人と海』など、S.フィッツジェラルド、E.ヘミングウエイ、W.フォークナーの著作も、刊行していた名門出版社(1846年創業)の書店部でした。フィッツジェラルドの著作を刊行したのは、創立者が作者と同じ名門プリンストン大学の卒業者であったことに関係するのでしょう。

良き時代の書店
 当時すでに「ブレンターノ」を始めとして、新刊本もディスカウントするような大型店が出店している中で、ニューヨークの最も目抜き通り5番街48丁目の角に、重厚な書架に一般書、専門書を併せて展示している書店でした。

 建物自体は、チャールズ・スクリブナーの義弟にあたるアーネスト・フラッグが設計したそうです。ヨーロッパの書店とはひと味違った伝統をしのばせる店構えの立派さに惹かれて、ニューヨークでは最も足繁く通った場所のひとつでした。

 今ではビルの上層にかつての社名のエムブレムだけがかすかに残されているようです。一階は文学などの新刊書が多く展示されていました。私の関心のあった書籍は、主として二階部分にあることが多く、そこは小さいながらも立派な回廊のようになっていました。5番街に面し、時にはかなり混み合っている一階と異なり、客も少なく、階下の様子を眺めながら選書を楽しむことができました。高い棚にある書籍は、マホガニーのよう立派な木製の梯子を動かして見るようになっていました。 長い歴史が醸し出した他の書店にはない重厚な雰囲気がある店でした。

 今のようにコンピューター検索がない時代でしたが、顧客サービスはしっかりしており、1930年代のニューイングランド繊維企業の社史はないかなど、妙な質問をする日本人とみられたのでしょう、ついには店員に覚えられて、行くたびに挨拶されるほどになりました。今でも、色あせはしましたが、この店の入口部分が白地に黒く描かれたトートバッグ(本などを運ぶ手提げ)を持っているはず(画像を掲載しようとしましたが、どこかに紛れ込み、見つかりません。幸い発見できれば、お目にかけましょう。)

とても近寄りがたかった「ティファニー」
 ほど近い5番街57丁目にある有名な「ティファニー」Tiffany & Coなどは、60年代の頃は未だお抱え運転手付きの高級車が止まっていたりして、とても私などは中に入って見ることさえためらわれた雰囲気でした。

 実際、私が一時ホームステイをしていた友人の家の奥さんは、「ティファニー」に行く時は、美容院に行き、あらかじめ電話で担当の店員にアポイントメントをとって、出かけていました。長年の顧客には立派な身なりをした担当店員がいるのにも、おどろかされました。

 しかし、70年代後半に入ると、日本人の観光客で溢れるような店に変わって行きました。今では東京にまで出店していて、珍しくない「ティファニー」ですが、若い世代の人にはとても想像できないでしょう。こうした時代の流れに翻弄されてか、「スクリブナー」書店も「ブレンターノ」に買収され、5番街の店もまもなく閉店してしまいました。同店の昔を知るニューヨーク子には大変残念だったと思われます。こんなことを書くと、私もオールドタイマーになったことを実感します。仕方なく、「ブレンターノ」や「ダブルデイ」、「バーンズ&ノーブル」などの書店を利用することもありましたが、新刊書でもディスカウントして、広い台に平積みにして日用品のように本を売る大型店にはなんとなくなじみにくく、満たされない時期が続きました。

思いがけない出会い
 その後、1983年の暮れにニューヨークを訪れ、セントラルパークの南端に近い5番街の57丁目を歩いている時に、出会ったのがイタリア国旗の掲げられた書店「リツォーリ」(RIZZOLI, 31 West 57th)でした。この店の周辺は変化が激しいのですが、当時は高級レストラン、ブティック、ホテルなどが建ち並んでいました。間口は小さな店ですが、ウインドウのディスプレイがあか抜けしていることに、まず目を奪われたのが出入りすることになったきっかけでした。
  
 この店は映画に詳しい方は「恋におちて」( 1984年、ロバート・デ・ニーロと メリル・ストリーチ主演)の舞台となった書店として、ご記憶かもしれません(中年の男女が、クリスマス・プレゼントを買うために出かけたこの店先で出会うのです)。「リツォーリ」の名前と移転する前の店も知ってはいたのですが、扱う書籍が関心の対象外と思いこんでいました。とても貧乏学生には縁のない高級な建築関係の書籍や美術書などを扱う書店というイメージでした。ところが、ふとのぞいてみると、素晴らしい装幀の美術書や文学関連の新刊書籍、そして以前から探していたCDなどと一緒にイタリア・ワ インの瓶やサラミ・ソーセージが展示された、なんとも洒落たディスプレイではありませんか。

心地よい空間
 間口は小さいが、奥行きは結構深い店内に入ってしばらく見ていると、私の専門の経済学など世俗的な学問の書籍はほとんどありませんが、美術書、文学書などについては素人でもたちまち魅了されるほどの品揃えです。余談ですが、欧米の書店の多くでは経済学関係の書籍は、ケンブリッジやオックスフォードなどの大学都市の書店などは別として、しばしば「ビジネス」というタイトルの下に分類されています。

 決して広い店内ではないのですが奥行きは思ったよりも深く、椅子も準備され、居心地の良い空間でした。そればかりか、本を探していると、なんと書籍棚の奥からムソルグスキーの「展覧会の絵」のピアノが程良い音量で聞こえてくるではありませんか。なんとも心憎い演出でした。かくして、私の専門の書籍はほとんどないこの店が、新たなお気に入りのひとつとなったわけです。毎年送られてくるカタログを見ていると、書籍だけでなくイタリア・ワインまで注文できてしまうのです。そして、他の書店をのぞいた時には見つからなかったアメリカ鉄鋼業に関する新刊書が、なんとここにあったという経験もしています。これは、書店めぐりの醍醐味といえましょう。「リツォーリ」も映画の影響もあって、世界中に知られた書店になってしまいました。


ヴァーチャル書店の時代へ
 日本でも、東京などでは最近は立派な大型書店も増え、書架の近くに椅子や喫茶コーナーを置いてくれている書店もみられるようになりました。しかし、そこで読まれているのが、コミックや立ち読みで読み終ってしまいそうな本が圧倒的という光景はどうもしっくりきません。「アマゾン・コム」や「インターロック」のようなヴァーチャル書店の時代となりましたが、小さくとも訪れる人の心を豊かにしてくれるような静かな空間がほしいと思うのは私だけでしょうか。雑踏をふと離れて、一寸別の世界にしばし身を置いてみたいという願望を叶えてくれるような場所がないだろうか、というのが最初にこのコーナーを開いた動機でした。

コメント (2)
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午後のティールーム(開店のご挨拶)

2005年02月10日 | 午後のティールーム
ブログ開設のご挨拶  
  皆様、はじめまして。このたび、ささやかなブログを開設することにいたしました。実は、このブログの出発点となる「ティールーム」は、私がある大学の教師であった時に、ゼミナールや教室での議論を活性化するために設置したホームページの内容が背景になっています。教員と学生が共同して運営し、かなりの注目を集めました。

 昨年、私が大学を去った後は個人的な多忙などの事情が重なって運営が難しくなり、「ティールーム」は閉店してしまいました。
  
 その後、かつて「ティールーム」を訪れてくれた皆様から、ぜひ再開してほしいというご希望があり、ここに小規模ながら開店することにしました。当面、テスト開店のため、内装、調度、メニューなど行き届かない点が多々ありますが、少しずつ充実して行きたいと思っています。
 
 ホームページの時は、専門の労働経済学や労使関係の分野を中心に、広く「働く世界」のトピックスをとりあげてきました。ブログでは、私の人生のさまざまな断片を織り交ぜながら、「時空を超えて」、さまよってみたいと思います。文字通り「断片ノート」fragmentary notes なので、当面テーマの設定などには重きを置かず、話題の赴くままに進めてゆくつもりです。思いがけない話題も飛び出すかもしれません。 どんな「ティールーム」になるのか、今の段階ではまったく分かりませんが、当初は午後のお茶の一時を楽しむような気軽な息抜きのコーナーを目指して、スタートすることにいたします。時々ご来店いただければ有りがたく存じます。


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