「あなたの人生で残された時間は今日一日です」と宣告されたら、どうしますか。このきわめて重い課題を映画にしてしまったのが、ギリシャの名監督テオ・アンゲロプロスである。『旅芸人の記録』、『霧の中の風景』『ユリシーズの瞳』(1995年カンヌ映画祭審査員大 賞)、そして最近ではこのテーマを取り上げた『永遠と一日』(1998年カンヌ映画祭パルムドール大賞)など重厚な名作で知られる。とはいっても、学生諸君の多くは名前すら聞いたことがないのではないか。
ストーリーの展開がやや難解で、決して大衆向けのメイジャーな 作品ではないからだ。 このとても一般向けとはいいがたいアンゲロプロスの作品になぜ私が関心を持つのか。理由はいくつかあるのだが、とりわけ「国境と個人としての人間」の関係を、厳しく追い求めている点にある(と思っているのはどうも私だけで、監督の真の意図は別のところにあるの は確かなのだが)。
『永遠と一日』は、現代のギリシャの町、テサロニキにおいて死期を悟った老境の作家アレクサンドレが、人生の最後の一日に、街中で偶然に出会ったアルバニア系難民の少年(俳優ではなく本当のアルバニア難民、素晴らしい名演技)と過ごす短いが充実した時間を濃密に 描いている。そして、作家の歩んできた人生を回想の形でその過程に投影し、すでに亡くなっている妻との関係、作家と社会とのかかわりを内省する形で展開している。その映像の美しさ、カメラ回しの巧みさにはいつも魅了されてしまう。とりわけ、深みを持った青色の 美しさは比類がない(これも私の好みでの独断)。
語るべき点はあまりにも多いのだが、ここではただひとつ重要なプロットとして使われている国境についてだけ記そう。主人公がふとしたことで危急を救ったくだんの少年は、ギリシャに難民として入りこみ、暴力団によって人身売買され、過酷な状況で働いている少年たちのひとりである。
交わす言葉は少ないながらも、お互いに心が通うことになった作家と少年が厳寒のアルバニア国境を訪れるシーンがある。作家がなんとか少年を祖国に送り返してやりたいと考えたからである。少年はその好意に反するわけではないのだが、帰りたいという意思は示さない 。その意味は直ちに分かる。国境に張りめぐらされた金網に多くの人々がしがみつき、良く見ると、凍りついて死んでいるのだ。二人に気がついたナチス・ドイツのような軍服を着た将校が近づいてくる光景は、身も凍るような陰惨さで、現代の国境が持っている冷酷な一 面を一瞬にして観る者に悟らせる。少年が一言も発せずとも、彼の祖国の実態がいかなるものであるかを分からせてしまう。
これほどではないが、かつてチャウシェスク政権下のルーマニアを訪れた時の印象が、私には今も強く残っている。何の飾り気もない殺伐としたブカレストの空港で1~2時間も行列させられた後、対面した入国審査官の氷のような眼、町中で行き交う人々が、外国人である私を見る到底同じ人間とは思えない、射るようなまなざしを思い出す。東欧のパリといわれる文化の色を残しながらも、電力不足で暗い街。パリを真似た小さな凱旋門も闇の中に沈んでいた。
外国人が宿泊できるホテルは指定されている。各階には無表情な人が、客に挨拶することもなくじっと座っている。いつもどこからか監視されているような異様な雰囲気。ただひとつ人間らしさを感じたのは、街角のアイスクリーム屋の長い行列。それも小さな小さなアイスクリームであった。本能的にこの国はどこかおかしいと感じた。政治体制は人間の容貌までも変えてしまうものなのか。
「ユリシーズの瞳」も、20世紀初頭に撮影された最初のギリシャ映画の未現像フィルムを求めて、35年ぶりにアメリカから故国ギリシャへ戻った亡命者である映画監督の旅路を描いた名作である(実物に接していない人に映画や絵画の説明をすることほど、難しくて、馬鹿らしいこともないのだが)。バルカン半島の複雑な政治的・民族的分断の中を旅する男の出会うさまざまな苦難は、極東の島国に住むわれわれにはとても理解しがたい怪奇さを反映している。[ちなみに、教室で説明したBalkanization(市場の分断化)という 言葉は、まさに、このバルカン半島の複雑に分断された状況をクラーク・カーが比喩的に使ったものである]。
TVの映像で瞬時に世界の変化を知ることのできる今日でも、コソボ紛争の実態を日本人が理解することはきわめて困難といってよいだろう。コソボのアルバニア系住民が亡命している国が、『永遠と一日』の少年の祖国アルバニアなのである。コソボの実態がいかなるもの であるかは、想像を絶する。
これまでの人生で、私もずいぶん多くの国境の姿を見てきた。とりわけ、国際労働力移動(外国人労働者)の研究に手を染めてから、国境の実像に接することに一段と興味が深まった。国境は、その歴史的・地政学的相違を背景にして、決して一様ではない。その実態は文字 通り多様である。それまで穏やかな様相を呈していた国境が、一変、厳しく、冷酷な存在となることも稀ではない。最近のコソボ紛争、台湾・中国論争、東ティモール問題などは、いずれも国境が険悪な様相を呈している場合である。
映画は、時に見る人に思いもかけない仮体験をさせてしまう。たかが映画、されど映画。(2003年8月5日記)。旧ホームページから転載。