時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(53)

2006年01月05日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 
アルビの礼拝堂プラン*   印のついた箇所にシリーズは掲げられていた。

    
「聖トマス」(「アルビの使徒シリーズ」の一枚。国立西洋美術館蔵)
Credit:

http://www.abcgallery.com/L/latour/latour5.html


「アルビの使徒シリーズ」をめぐって(2)
  「ラ・トゥールを追いかける」ことは、ミステリーを読み解くような楽しみがある。なんとなく作品や資料を見ていると、思いがけずキーが与えられたりする。答にたどりつけなくとも、どんなことがあったのだろうと想像するだけで、時空はるかにさかのぼることができる喜びがある。    

  日本の国立西洋美術館が所有することになった「聖トマス」Saint Thomas を含めて、合計12枚の「アルビの使徒シリーズ」は、今日では5枚だけが真作として確認されている。いかなる経緯でこの作品群が生まれ、その後400年近い年月の間になにがあったのだろうか。

謎のままの制作動機・背景  

  前回のブログで紹介したフランス国立美術館研究・修復センターのDVD資料によると、パリの著名な収集家であった僧院長フランソワ・ド・カンが、1694-1695 年の間にアルビ大聖堂に作品を贈ったとの記録がある。この時もどうしたことか、いつになっても2枚だけが到着せず、カン僧院長が早く送るように催促をするということが起きている。なにがあったのだろうか。   

  実際には作品自体は、これよりはるか以前に制作されていた。たとえば、「聖トマス」はおそらく1628-32年の頃に描かれたと推定されている。僧院長カンがどういう経緯で、この一連の作品を所有し、アルビの大聖堂へ贈ったのかも不明なままである。   

  そもそも誰が何の目的で、このシリーズの制作を画家ラ・トゥールに依頼したのだろうか。その経緯はこれまでのところなにも分かっていない。作品の大きさや人物の配置などに一定の統一性が見いだされることなどから、当初はロレーヌの小さな修道院などからの依頼であった可能性も考えられる。それがなんらかの理由(たとえば戦乱を避けてパリに移転するなど)があって、収集家であったカン僧院長などのコレクションになったのかもしれない。ラ・トゥールは同時代の芸術家がしばしば携わった教会や修道院の壁画などの大きな作品を手がけていない。少なくとも、そうした作品や記録は発見されていない。

ある日消えてしまった作品群  
  いずれにせよ、今日に残る記録では、1698年にはキリスト像を含む13枚の作品がアルビの礼拝堂の壁に掲げられていたことが分かっている。その後1795年の段階でも作品はそこにあったのだ。1820年にはサント=セシル大聖堂の修復が行われた。しかし、不思議なことに、1877年の記録ではこれらの絵画はなんらかの理由で礼拝堂から消失している。なにがあったのだろうか。さらに、興味深いことは、その後今日までいくつかの作品が再発見され、現代のわれわれが目にすることができるようになった。 「使徒たち」はどこへ行っていたいたのだろうか。  

  これらの13枚の作品がいかなる理由で散逸し、再び何枚かが発見される過程(5枚が発見されて残っている)はミステリーを読み解くようで興味深い。これからも、予想もしなかったところから再発見される可能性も十分ありうる。 礼拝堂に掲げられていた作品  1698年の礼拝堂修復の時には、このアルビ・シリーズはすべて存在したことが確認されていた。作品は礼拝堂の前方の壁に掲げられていたという。図版写真の○印のあたりである。フランス国立美術館研究・修復センターのDVDには、礼拝堂にこのシリーズが掲げられていた当時の状況を再現した3D図が含まれている(残念ながら、ブログではお見せできない)。  

好まれた使徒シリーズ  
  ラ・トゥールの時代には、使徒シリーズはロレーヌばかりでなく、ヨーロッパ各地で大変好まれたテーマであった。教会の依頼などもラ・トゥール以外にも著名な画家で同様な試みがいくつかなされている。たとえば、ルーベンスは1610年にレルマ侯爵のために同じ聖人を、ラ・トゥールとは異なりきわめて理想化したイメージで描いている。ルーベンスの助手でもあったヴァン・ダイクも1620か1621年にアントワープで同様な主題で制作している。   

  パリや当時は未だ政治的にも独立していたロレーヌでは、カロ, ビュスニックBüsinck などが銅版画でこのシリーズを制作もしている。しかし、知られているかぎり油彩で描いているのは、ラ・トゥールだけである。後年、ラ・トゥールの特徴とされるにいたったいくつかの様式は、すでにこの時期の彼の作品に使われている。

改められる聖人のイメージ  
  カソリック宗教改革の時代、教会側は12人の聖人・使徒を称揚していた。これらの使徒は生きている頃は、キリストと直接の関係があった人々であり、キリストの言葉を広めたのは彼らであるとされてきた。また、キリストの生涯における重要な場面を目にしているいわば証人である。これらの点が、彼らに特別な役割を与え、教会は布教などで必要な時には彼らを活用してきた。   

  これに対し、宗教改革者、プロテスタント側は従来カソリックの聖人たちが描かれてきた、神格化されたようなフォーマルなイメージに反対を唱えた。こうした描写の形式性は人々を使徒に近づけるのではなく、逆に距離を作り出していると攻撃した。   

  批判を受けたカソリック教会側は、それまでに形成されてきた使徒の立場や役割を見直す必要に迫られた。こうした背景から、教会側は使徒と人々の関係を再構築することになった。福音書において、これらの使徒は当時の社会では決して裕福ではなく、むしろ貧しい背景を持った人々であると記されていることに着目した。画家や彫刻家などの芸術家に課せられた役割は、この線に沿って聖人をふつうの人々の視線のレヴェルに近く戻すことにあった。

  しかし、その仕事は決して容易なことではなかった。長い歴史の経過とともに、人々の間には固定化された聖人のイメージが強く浸透していた。改めて「聖」と「俗」のバランスをいかに築き直すか。ラ・トゥールはこの困難な課題に取り組んだ一人であった。

Reference
* C2RMF-Centre de Recherche et de Testauration des Musées de France. (2005). Les Apôtres de George de La Tour: RÉALITÉS ET VIRTUALITÉS. Codex International S.A.R.I
. (日本語版 神戸、クインランド、2005). ちなみに、このDVD・ROMはDVDプレーヤーでは使用できない。ウインドウズ環境のみで再生できる。

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ラ・トゥールを追いかけて(52)

2006年01月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 
アルビ大聖堂全景
http://www.all-free-photos.com/show/showphoto.php?idph=IM3670&lang=en

「アルビの12使徒シリーズ」をめぐって(1)
  


  ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという希有な画家の作品に、人生の途上でたまたま巡り会った。昨年の東京での特別展をきっかけに、それまで見聞してきた知見を含めて「覚え書き」のつもりで書き始めたシリーズだが、予想を超えて回数を重ねてきた。それは、この画家の作品と生涯が文字通り「発見の歴史」であったことにも関係している。作品の背景を調べていると、時代とともに次々と新たな発見がある。

  この「ラ・トゥールを追いかけて」
の旅は、単にラ・トゥールという長らく埋もれていた画家、そして作品についての知見の充実にとどまらず、画家の生き方について迫る旅のようなものであった。美術史上は文字通り歴史の闇の中から発見されたラ・トゥールだが、次々と新たな作品も発見され、当初は思いもかけなかった「昼の世界」の作品解明も進んだ。この画家の精神、そして作品世界の本質は、厳しい「闇」の中に埋もれているのだが、光はその深く沈んだ世界をわずかだけかいま見せるものとして、どこからともなく差し込んでくる。   

  この画家がいかなる思索の上に作品を構想し、制作したかというわれわれが最も知りたい部分について、画家自らの手になる制作記録、日誌、書簡などの類は、ほとんどなにも残っていない。しかし、世俗の世界における画家の生き様を推測させる記録が年を追って発見されてきた。だが、それらはあくまで画家の人生のわずかな断片を第3者が記録したものか、画家本人の世俗的生活のほんの一部に関わるものにすぎず、画家の心象世界を推測しうるものではない。   

  ラ・トゥールの作品は、それらと無心に対することによって、その深い精神世界をかなり享有することができる。画家がなにを心に描いて作品制作に当たったか。一度見た作品でも、後日再び見ると、思いがけない発見をすることもある。

「アルビの使徒」シリーズの背景  
  ラ・トゥールの作品をかなり見ている人々の間でも、必ずしも正当な評価を得ていないと思われる作品がある。「大工ヨセフとキリスト」、「生誕」あるいは「いかさま師」など、現代人にも大変人気のある作品の傍らで、やや取りつきがたい、しかしかなりはっきりとした特徴を持った一連の絵画がある。昨年、日本で初めての「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール展」の開催動機となった「聖トマス」Saint Thomas を描いた作品もその中に含まれる。そのほとんどはキリストの使徒たちを描いた宗教的作品である。

  この宗教的背景ということもあって、東京での特別展でも「聖トマス」の人気度?はいまひとつであった(重要な使徒の一人なのだが、容貌が厳しく描かれている上に、手にしている槍が見る人にやや取り付きがたい印象を与えることも影響しているかもしれない)。

  他の作品の方が良く知られていたり、直接的に訴えるものがあるためと思われる。この点は、キリスト教文化により近接しているヨーロッパの人々などについても、かなり当てはまる。何人かの友人たちに聞いてみると、ラ・トゥールによって描かれた使徒たちの出自まで知っている人は、今日ではかなり少ない。  

  今回とりあげるのは、この「アルビの12使徒シリーズ」The Apostles Series in Albiと呼ばれるキリストと12人の使徒を描いた作品(ただし、後述するように全作品が現存するわけではない)である。制作年代としては、ラ・トゥールの生涯で比較的初期に描かれたと推定されている。 この作品群については、フランス博物館科学調査・修復センターの協力で、昨年の東京での特別展に合わせて、その研究成果の一部がDVDの形で制作・販売されている*。使徒シリーズのみならず、ラ・トゥールの生涯が最新の研究成果に基づき、大変コンパクトにまとめられている。この画家と作品に関心を持つ者にとっては、きわめて便利な一枚である。また、東京での特別展のカタログも「アルビの12使徒」シリーズについて、多くの情報を含んでいる**。それらも参考にしながら、改めて「12使徒シリーズ」を見てみたい。

まとまっていた作品  
  これらの作品は1690年代末にフランスの南西部にあるアルビのサント=セシル大聖堂に贈られた。大聖堂のCanon(司教座聖堂参事会員)であったニュアラールJean-Baptiste Nualardの要請で、大聖堂の内陣にある第6礼拝堂funeral chapelに掲げられたはずであった(次回に場所を記す)。パリの著名な収集家であったカン僧院長abbot François de Camps が、1694-1695 年にアルビに作品を贈ったとの記録がある。このシリーズのすべてをカン僧院長自らが所有したものか、他の収集家の所有であったかどうかは分かっていない。作品が制作された目的とか、1624-1694年の間の経緯については、今日の段階ではなにも分からない。 キリスト像を含めて13枚あったはずの作品の中で、5枚だけが真作として発見され、現存している。そのうち2枚は今日もアルビの美術館にある。

  原作があるのは、使徒の名前でいえば、Saints Andrew, James the Lesser, Philip, Judas Thaddeus, and Thomas である。コピーが残っているので、他の6枚の作品については構図が確認できる。しかし、Saint Johnと Saint Matthew については、どんな構図であったか分からない。しかし、ここへたどり着くまでには、失われた作品の発見を含めて、美術史家などの多大な努力が注がれてきた。それらを通して、なにが明らかになったのか。「アルビの使徒たち」の行方を少し追ってみたい。


Reference
* C2RMF-Centre de Recherche et de Testauration des Musées de France. (2005). Les Apôtres de George de La Tour: RÉALITÉS ET VIRTUALITÉS. Codex International S.A.R.I.
(日本語版 神戸、クインランド、2005). ちなみに、このDVD-ROMはDVDプレイヤーでは閲覧できず、Windows環境でしか使えない。

**
    「アルビ・シリーズ」の1枚である「聖トマス」が、国立西洋美術館の所蔵になったことをきっかけに開催されたこともあって、下記特別展のカタログには、このシリーズについて、簡潔だが最新の情報が含まれている:
国立西洋美術館『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』読売新聞社、2005年

コメント
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新年おめでとうございます

2006年01月01日 | 雑記帳の欄外



新年おめでとうございます.
 

ワールド・カップを楽しみに.

平和な年であることを願いつつ.

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