剪定した枝などを庭の一隅に積み上げていた。
いつかは堆肥に、という家人の趣旨だったのだけれど、
狭い庭にどんどん積みあがっていくこともあり、何回かに分けて、借りている畑に持っていき燃やした。
ブロックをコの字に積み上げて、水を傍らに汲み置いて、
「焚き火」です。
てらてらと、炎が発する熱にあたって、
ああ、そういえば、火って、こんなだったと、確認する感覚があります。
小さい子どもが傍にいれば、歓声も聞こえたのに、そんな頃は、遠に過ぎ去りました。
でも、夫婦2人ですが、しぶとく「焼き芋」は、しました。
ホッコリとうまく焼きあがり、ふたりで楽しみました。
数を数え、どれが大きいとか、誰が多いとか、奪い合うようにはしゃぐ子どもの声があったりすると、もっと焚き火が楽しいものになるのに、なんて思ったりしました。
最近では、身近な「火」は、ガスコンロの炎でしかお目にかかりません。
さらに進んで、ガスから電気に替わりつつある昨今です。
「炎」が、更に身近なものではなくなるのでしょう。
私などは、かまどでご飯を炊いていた母親を知っています。
「消し炭」とか「おきび」という言葉も、日常語からなくなりましたね。
時間を設定しておくと、自動でスイッチが切れる「火力」も、重宝ですが、
燃えてしまうと、燃やしてしまうと、もう同じものが二度と存在し得ないのだ、ということを身近で示してくれているようで、
もし、少年期の子どもがいたら、「焚き火」体験も、貴重だな、そんなことを思いました。
いつかは堆肥に、という家人の趣旨だったのだけれど、
狭い庭にどんどん積みあがっていくこともあり、何回かに分けて、借りている畑に持っていき燃やした。
ブロックをコの字に積み上げて、水を傍らに汲み置いて、
「焚き火」です。
てらてらと、炎が発する熱にあたって、
ああ、そういえば、火って、こんなだったと、確認する感覚があります。
小さい子どもが傍にいれば、歓声も聞こえたのに、そんな頃は、遠に過ぎ去りました。
でも、夫婦2人ですが、しぶとく「焼き芋」は、しました。
ホッコリとうまく焼きあがり、ふたりで楽しみました。
数を数え、どれが大きいとか、誰が多いとか、奪い合うようにはしゃぐ子どもの声があったりすると、もっと焚き火が楽しいものになるのに、なんて思ったりしました。
最近では、身近な「火」は、ガスコンロの炎でしかお目にかかりません。
さらに進んで、ガスから電気に替わりつつある昨今です。
「炎」が、更に身近なものではなくなるのでしょう。
私などは、かまどでご飯を炊いていた母親を知っています。
「消し炭」とか「おきび」という言葉も、日常語からなくなりましたね。
時間を設定しておくと、自動でスイッチが切れる「火力」も、重宝ですが、
燃えてしまうと、燃やしてしまうと、もう同じものが二度と存在し得ないのだ、ということを身近で示してくれているようで、
もし、少年期の子どもがいたら、「焚き火」体験も、貴重だな、そんなことを思いました。