皆さんは、?? でしょう。
我が家では「『はじめの猿』ってことかもしれないし…」そういうふうに言ったりする。
通じないでしょうね~。
以前、中学生の国語のサブノートというか、問題集の中の文章でこんなのがありました。
文明の進歩について書いた文章でした。
進歩は日々の着実な努力や試行錯誤から、少しずつ進歩してきている。けれども、意外と進歩は、着実ではなく、思いがけないことが起きて、それがきっかけとなって、新しい道がひらかれることもあるのた、という論調の文でした。
その話に、猿の群れの話がありました。
本来水に入ることを避けていた猿たちだったけれど、そそっかしいというか、無鉄砲な猿が、思わず川に飛び込んで(落ちて)しまった。
水の中の猿は慌てふためき、必死に岸辺に這い上がった。
で、それを見ていた他の猿たちも、水に入っても意外に大丈夫と理解する。
泳ぐことができると、向こう岸に渡ることができる。世界が広がる。
世の中は、こうして堅実派だけではなく、思わぬことを試みる猿がいることによって、開けてきたのだ、と。
ーーー読んだときは、即「いい文章だね」と、口に出たのに、記そうと思うと、下手くそ→私。
読んで、まだ年数も経ていない頃、夫に話したので、それからは、『はじめの猿』で意味が通じるようになっている、というわけです。
横道を遠く進んでいってしまいましたね。
で、何を言いたかったか、というと、
子供たちが幼いときは、彼ら彼女らは、母親の庭で遊ぶことが日課でした。
それから、子供社会に出て行き、仲間の中で学び、社会人として巣立っていきました。
すっかり、子の世話をする役割は終えていますが、心配が尽きないのも本当です。
そんなときに、時々、引っ張りだすのです。
あの子のしていること『はじめの猿』かもしれないと。
水つながりで、話題を広げます。
先日の娘との電話で。
昨今、独立行政法人がやり玉にあがっているね~と、話しました。(彼女の以前の勤務先も、その独法人でした。退職を伝えてきた頃の文章)。
そう、いいことよ。あのときから、□□□□は沈みかけた船のようだったから。
そう、上位官庁から出向の人が来ていて、威張っていると、いっていたよね~
だから同期はドンドンやめて行ったけれど、
沈みかけた船から、次に乗る船をちゃんと見極めて、船から降りる人もあれば、何にも考えないで、ボチャンと海に落ちる私みたいなのもいる、と。
デモね、今は何とか筏(いかだ)ぐらいには乗れているからね。
タイタニック(の映画)、知っているでしょ。あの映画のように、沈没する船に最後までしがみついている人もいるわけだし、ね。
うーーん。
私は、臆病者だからしがみつくタイプかも知れない。
乗り移る船もなく、海原にボチャン、と自分のことを行っていた娘。
漂流する筏かも知れないけれど、
今は自分の筏の船長さんなのだから、
航海に晴れの日もやってくることを願う。
どの企業も、起業したばかりの頃は小さかった!
だよね、『はじめての猿』
そして、
起業後一年近く、苦境をしいられた彼女。
ボツボツ取引が始まっている今。
泣き言も言わず、よく頑張ったと、思っています。
苦境があるから、ひとつの取引があること、のありがたさが判る。
初めからスムーズに行ったら、この喜びを味わう、という体験ができなかった。
よく頑張ったね。
このはじめの大変だったことが、あなたの人生の財産だよ。
あなたは堪える体験という財産を持ったのよ。
そう電話口でいったら、
そんな風に思ってくれるのは、親だからだね、と。
そんなものです。
話は、戻って、
私が「はじめの猿」の文章に出会ったのは、友人(ピアノ教師)のお子さんの家庭教師をしていたとき(ウチの子供のピアノのレッスン中、私は友人宅で彼女の息子の国語の家庭教師をしていた)。
「へー、いい文章だね」と言ったら、その中3の息子さんは、
「ボクはこの文章、知っている」というのです。
そして、隣室へいって、紙片を持ってきて、
「ホラ」と、差し出しました。
新聞の切り抜きです。
まったく、その文章なのです。
どうして?
と聞くと、
「お父さんが新聞記事を切り抜いて・・・」と。
不思議なものです。
見つけた場所が、新聞だったり、勉強用問題集なのですが、
気に入った、ココロにストンと来るものは来るのです。
へー、お父さんもこの文章をあなたに読ませたかったのだね。
なんだか、子育てする親の心遣いに共通したものがあるように感じました。
因みに、そのお父様は理系ですが大学教授。
子を思う気持ち、生育する子供を見守る親というスタンス。
まあね。
「はじめの猿」の話題には、こんな偶然もあったというエピソードのオマケの話です。
不思議でしょう。
というか、この話がいいから、こんな偶然が起きたのでしょうけれど、ネ。
我が家では「『はじめの猿』ってことかもしれないし…」そういうふうに言ったりする。
通じないでしょうね~。
以前、中学生の国語のサブノートというか、問題集の中の文章でこんなのがありました。
文明の進歩について書いた文章でした。
進歩は日々の着実な努力や試行錯誤から、少しずつ進歩してきている。けれども、意外と進歩は、着実ではなく、思いがけないことが起きて、それがきっかけとなって、新しい道がひらかれることもあるのた、という論調の文でした。
その話に、猿の群れの話がありました。
本来水に入ることを避けていた猿たちだったけれど、そそっかしいというか、無鉄砲な猿が、思わず川に飛び込んで(落ちて)しまった。
水の中の猿は慌てふためき、必死に岸辺に這い上がった。
で、それを見ていた他の猿たちも、水に入っても意外に大丈夫と理解する。
泳ぐことができると、向こう岸に渡ることができる。世界が広がる。
世の中は、こうして堅実派だけではなく、思わぬことを試みる猿がいることによって、開けてきたのだ、と。
ーーー読んだときは、即「いい文章だね」と、口に出たのに、記そうと思うと、下手くそ→私。
読んで、まだ年数も経ていない頃、夫に話したので、それからは、『はじめの猿』で意味が通じるようになっている、というわけです。
横道を遠く進んでいってしまいましたね。
で、何を言いたかったか、というと、
子供たちが幼いときは、彼ら彼女らは、母親の庭で遊ぶことが日課でした。
それから、子供社会に出て行き、仲間の中で学び、社会人として巣立っていきました。
すっかり、子の世話をする役割は終えていますが、心配が尽きないのも本当です。
そんなときに、時々、引っ張りだすのです。
あの子のしていること『はじめの猿』かもしれないと。
水つながりで、話題を広げます。
先日の娘との電話で。
昨今、独立行政法人がやり玉にあがっているね~と、話しました。(彼女の以前の勤務先も、その独法人でした。退職を伝えてきた頃の文章)。
そう、いいことよ。あのときから、□□□□は沈みかけた船のようだったから。
そう、上位官庁から出向の人が来ていて、威張っていると、いっていたよね~
だから同期はドンドンやめて行ったけれど、
沈みかけた船から、次に乗る船をちゃんと見極めて、船から降りる人もあれば、何にも考えないで、ボチャンと海に落ちる私みたいなのもいる、と。
デモね、今は何とか筏(いかだ)ぐらいには乗れているからね。
タイタニック(の映画)、知っているでしょ。あの映画のように、沈没する船に最後までしがみついている人もいるわけだし、ね。
うーーん。
私は、臆病者だからしがみつくタイプかも知れない。
乗り移る船もなく、海原にボチャン、と自分のことを行っていた娘。
漂流する筏かも知れないけれど、
今は自分の筏の船長さんなのだから、
航海に晴れの日もやってくることを願う。
どの企業も、起業したばかりの頃は小さかった!
だよね、『はじめての猿』
そして、
起業後一年近く、苦境をしいられた彼女。
ボツボツ取引が始まっている今。
泣き言も言わず、よく頑張ったと、思っています。
苦境があるから、ひとつの取引があること、のありがたさが判る。
初めからスムーズに行ったら、この喜びを味わう、という体験ができなかった。
よく頑張ったね。
このはじめの大変だったことが、あなたの人生の財産だよ。
あなたは堪える体験という財産を持ったのよ。
そう電話口でいったら、
そんな風に思ってくれるのは、親だからだね、と。
そんなものです。
話は、戻って、
私が「はじめの猿」の文章に出会ったのは、友人(ピアノ教師)のお子さんの家庭教師をしていたとき(ウチの子供のピアノのレッスン中、私は友人宅で彼女の息子の国語の家庭教師をしていた)。
「へー、いい文章だね」と言ったら、その中3の息子さんは、
「ボクはこの文章、知っている」というのです。
そして、隣室へいって、紙片を持ってきて、
「ホラ」と、差し出しました。
新聞の切り抜きです。
まったく、その文章なのです。
どうして?
と聞くと、
「お父さんが新聞記事を切り抜いて・・・」と。
不思議なものです。
見つけた場所が、新聞だったり、勉強用問題集なのですが、
気に入った、ココロにストンと来るものは来るのです。
へー、お父さんもこの文章をあなたに読ませたかったのだね。
なんだか、子育てする親の心遣いに共通したものがあるように感じました。
因みに、そのお父様は理系ですが大学教授。
子を思う気持ち、生育する子供を見守る親というスタンス。
まあね。
「はじめの猿」の話題には、こんな偶然もあったというエピソードのオマケの話です。
不思議でしょう。
というか、この話がいいから、こんな偶然が起きたのでしょうけれど、ネ。