日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

もし、こんな機会があったとしたら・・・

2010-11-09 07:22:50 | 私の雑感あれこれ
この歳になってくると、同級会の話題が出る。
先日、夫が高校の同級会に出た。
40年ぶりの出席で、そんな久方ぶりに顔を出した人は、一言挨拶といわれたそうだ。

もし、私にそういう機会があったなら、ということで・・・


本当に40年ぶりで皆さんにお会いできて、不思議な気分の中に居ます。
この街は、夫の実家のある街なので、来てはいたのですが、同級生の誰に会うこともなくの40年でした。
よくみると、当たり前のことなのですが、集まっているのが高校時代のみんな、です。
40年以上前になるのですが、すぐ思い出せます。
不思議なものです。
子供が高校生の頃、その入学式で、
「高校時代は、外見の変化はそんなに見られなくても、蝶々のさなぎが蝶になるときに、そのさなぎの身体の中で、たんぱく質が一度どろどろに分解し、再構成されるのですが、
人も、高校時代の子供も、その内面において、そんな変動が起こる時期です」
と、聞き、ただ上手い表現だなと思っていました。
最近、自分の高校時代のことを思い出して、ふと、思いました。
自分にも当てはまる、と。
15歳の4月から早朝の始発の汽車で通学する日が始まりました。
地元の学校ではなく、敢えて「汽車通」(汽車で通学するから、キシャツウという言い方をしていた)になったわけです。
今も近くに住む、あのころの汽車通仲間とは、幾度か会って食事をしたりしています。
で、「さなぎ」のドロドロのことですが、
文学少女のIさんが一つの出会いでした。
国語のA先生の熱心な授業展開の後も、Iさんと、アレコレ語ったような思い出があります。
このころから、本を読み始めました。
遅かったー。本を読む速度が。
アンナカレーニナを中学時代に読んだとか、読むのが早い友人たちを妬ましく思いながら、比較的短い明治以降のものとか、翻訳ものではヘルマンヘッセなどを読みました。
ただ、言って見れば、「本を読み始めた」というだけのことですが、
なんだか、今思えば、それが、あのさなぎのドロドロだったような気がするのです。
でも、その期間も、考えてみればたった2年間なのです。
私にとってのこの本を読む出だしのIさんなのですが、当然のように読書する少女だった彼女には、特段の記憶はないそうです。
ものごとに対する印象とは、個人的なものでそんなものなのでしょう。

2年から3年になる春休み頃、
もう受験勉強に入らないといけないから、この本を最後にしよう、と読んでいた本を覚えているのですから。
その本は、シモーヌ・ド・ボーボワールの「娘時代」でした。

この本読みに耽った2年間が、将来の進路選択につながったのだから、果たして、よかったのかどうか、微妙なところがあるのですが・・・。


ふふふ、こんな場では、誰が好きだったとか、もっと楽しい話題がよかったかしら。
小学校、中学校時代は片思いの多きタイプだったのですが、一番ばら色であろう、この高校時代は、本を読まんとしていた、面倒くさい女生徒でした。

さなぎからの脱皮は大学に入って、ということになります。
ああ、思えば、遥か昔です。
でも、それまではキュリー夫人の偉人伝ぐらいしか興味なかった私が、文学本を読み始めたのが15歳、高校1年のときからなのです。

自分の振り返っての思い出話になりましたね。
ここまで元気にやってきました。
コメント (2)
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