日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

日曜日はシンポジュウムに行ってきた。

2024-12-02 07:52:03 | 歴史探訪・城巡り
テーマは「岩崎城再考」
パンフレットには ~徳川の天下を導いた「要塞」の姿を復元する~
小牧長久手の戦いの時の、要ともなる合戦が岩崎城であったという史実の解説に、城の形がどう関係していたか、とか残されている資料、史跡が少ない中からの構築でした。
ちなみに岩崎城の戦いは天正12年(1584年)4月9日 午前4時ころから、2~4時間の合戦だった。
本能寺の変で信長が絶命したのが天正10年(1582年)6月2日。清須会議が同年6月27日。信長の跡目を誰が継ぐかで、戦闘が繰り広げられた時代。そんなに詳しくはないのだけれど、そんな戦のひとつが住んでいるところの近場であったというので、興味を持ち始めたのが経緯です。岩崎城の城主は長久手の戦に加勢するために城を留守にしていて、その時守っていたのは、弟の丹羽氏重(1569~1584)。
岩崎城の守備勢力239名で、岡崎へと向かう池田軍らと一戦を交え、岩崎城は落城している。氏重の没年数え年で16歳。
この合戦があったことで、徳川軍の軍勢に時間的に有利となったということで、徳川の時代になっても丹羽氏は厚く遇された、とかが学芸員さんの展示解説で読んだことがある。
今回は、解説文でしか知らない学芸員さんの解説講義もあるということで、初体験のシンポジウム参加でした。

昨今、城ブームで百名城とか、続百名城とかたくさんあるけれど、合戦の場となった城は意外に少ないのです、という一言が心に残りました。
名古屋城は徳川の時代に作られており、一度も戦闘にあっていません。大きな合戦といえば、大阪夏の陣の大阪城なのでしょうか。今の大阪城は徳川時代のものの復元であり、秀吉の作った城は少し違う場所にあった。徳川260年間は城攻めとなる戦はなくて、幕末の戊辰戦争で落城し長岡城、会津若松城。大きなスパンで「城」を振り返るひとときでした。

もう10年以上前になるでしょうか、旅先で甲府あたりのパーキングに立ち寄ったとき、案内で「武田信玄のお城はどこでしょうか」なんて尋ねたことを思い出します。「武田信玄は城を構える前に死んでいるので、城はありません」との返事でした(恥)。
ワタシ、「聞くは一時の恥」の典型例ですね。苦笑 

城=天守閣、のイメージですが、天守閣のある城が作られたのが、安土城が最初で徳川の大阪城の天守閣までの約50年間だったとか。
岩崎城も天守閣を持っていたわけではなく、2階建ての天守にあたる構造物があったらしいという程度。それを天守閣と言ってもいいのでは、とおっしゃっていましたが。戦国時代の城は美形であることよりも、戦闘態勢優先ですからね。
同じルーティンをしているよりも、ちょっと出かけたことで、リフレッシュできました。
会場は結構満員。ただし参加者の平均年齢は高め、でした。苦笑




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする