時代は15世紀半ば。
古代ローマ帝国が、キリスト教を排斥することをやめたのは4世はに入ってから、ローマ国教となったのは4世紀末。元来多神教だったローマ帝国には数多の神がいて、それぞれが崇拝する神と向かい合っていた。ところが一神教であるキリスト教は、異教徒を認めず、制覇した地域の人たちの従来からの信仰を異端とし、その排斥の仕方が悲惨を極めた。多神教の時代は神に使える役職、教典というものがなかったから、神を崇拝することに身分差が生まれることはなかった。ところが、キリスト教の時代になって司祭や枢機卿など厳格な資格で秩序だてられ、その役職取得に絡むよからぬことが後を立たないようになっていった。勿論、役職ごとの厳然たる身分差も。経典は全てラテン語。教会での説教もラテン語であり、当時の庶民は殆ど文盲なのに、ましてやラテン語で語られると、なんにも意味が解らないのが教会。でもキリスト教徒でないと迫害される、という社会が長く続いていたのです。
以上は同著者の「ルネッサンスとは何であったのか」などのいわゆるカソリックでがんじがらめになっていた社会にどうして文化の花が開花したか、という11世紀頃からの時代を追って記述された本からの感化(雑な受け売り)、、、です。
コンスタンチノープルは東ローマ帝国の首都として1000年余りの繁栄してきました。そのときの皇帝コンスタンティヌス11世は49歳。都は黒海沿岸との交易の要所でした。交易で富を得て栄えている都市国家、ベネチアやジェノバにとってもその要所は失ってはならない拠点でした。
この頃の西欧、西ローマ帝国は既に衰退。東西のキリスト教を統一した会合を持つかどうかでギクシャク状態でもありました。
そこに、隣国オスマントルコの21歳と若い野望溢れるマホメット2世の標的になるのです。
交易で豊かになったビザンチンのきらびやかな財産を手に入れてしまおう、という野心。
正義が犯されたから、という理由などありません。
この両国の戦闘の経緯については年月日まで詳細に把握されているとのことです。目撃した人、戦闘に加わった人たちの書き物が残されているからです。
ボスフォロス海峡、金角湾、彼の地に旅行された人には記憶にある地名でしょう。
金角湾の入口に鉄鎖を張って、湾内に敵船が入ってこないようにした皇帝側。対して浮橋を造って、その上に大砲まで設置して攻撃に当たったマホメット側。
封鎖された金角湾に船をと、70隻の船が標高60メートルの山越え(!)もしています。
兵力差で叶わず、3重にも張り巡らされた防壁が切り崩され陥落。
このころの大砲の玉は石、火をつけた矢が相手方の木造船めがけて、という戦闘です。
…まだ、鉄砲の時代ではないのです。(参考:1543年種子島に鉄砲伝来)
敗者の高齢者、乳幼児は殺戮。それ以外は奴隷。率いられていく奴隷の列に悲鳴が上がるのは、妙齢の女性が列から離されて連れられていく場面。敗者の命運はどんなものかは覚悟のしていた時代で、その列は黙々と続いた、とあります。
以下、余談、横道。
先日の記事「ダウントン アービー」(これは時代考証がしっかりしたフィクションだと思います)で、伯爵家のよからぬスキャンダルというのは、長女とオスマントルコの皇族に繋がる王子とのひと晩が、王子のベットでの突然死という結果になった、という話。
⇒オスマントルコは20世紀まで権威を保っていて、英国貴族の淑女にも魅力的に写ったのですね。⇒私、世の常識でしょうけれど、知らなすぎる。
奴隷、スレイブ、の語源は、スラブ人に通じるとも、読みました(たしか、川口マーン恵美さんの本で)。ヨーロッパ人には、弱者、敗者を奴隷にする歴史、を多々持っているようです。
昨今、戦争中の従軍慰安婦が欧米では性奴隷と翻訳されているとかも耳にしますが、隷属させた国の民を奴隷にする習わしを持っていたことから、そういう呼び名をあてがったのでしょう。
こんな、厳しい歴史を知ることを楽しい、と表現するのは不釣り合いなのですが、「知らなかったことを知る」書物により知ることが出来るのは嬉しいことです。
そして、もう一つ、そのことを書き記せる場(ブログ)があるのも、この時代に生きたものの特権でしょうね。ありがたい、です。
何人かの皆様へ
独りよがりな文章を、ここまで読んでくださったとしたら、どうもありがとうございます。
古代ローマ帝国が、キリスト教を排斥することをやめたのは4世はに入ってから、ローマ国教となったのは4世紀末。元来多神教だったローマ帝国には数多の神がいて、それぞれが崇拝する神と向かい合っていた。ところが一神教であるキリスト教は、異教徒を認めず、制覇した地域の人たちの従来からの信仰を異端とし、その排斥の仕方が悲惨を極めた。多神教の時代は神に使える役職、教典というものがなかったから、神を崇拝することに身分差が生まれることはなかった。ところが、キリスト教の時代になって司祭や枢機卿など厳格な資格で秩序だてられ、その役職取得に絡むよからぬことが後を立たないようになっていった。勿論、役職ごとの厳然たる身分差も。経典は全てラテン語。教会での説教もラテン語であり、当時の庶民は殆ど文盲なのに、ましてやラテン語で語られると、なんにも意味が解らないのが教会。でもキリスト教徒でないと迫害される、という社会が長く続いていたのです。
以上は同著者の「ルネッサンスとは何であったのか」などのいわゆるカソリックでがんじがらめになっていた社会にどうして文化の花が開花したか、という11世紀頃からの時代を追って記述された本からの感化(雑な受け売り)、、、です。
コンスタンチノープルは東ローマ帝国の首都として1000年余りの繁栄してきました。そのときの皇帝コンスタンティヌス11世は49歳。都は黒海沿岸との交易の要所でした。交易で富を得て栄えている都市国家、ベネチアやジェノバにとってもその要所は失ってはならない拠点でした。
この頃の西欧、西ローマ帝国は既に衰退。東西のキリスト教を統一した会合を持つかどうかでギクシャク状態でもありました。
そこに、隣国オスマントルコの21歳と若い野望溢れるマホメット2世の標的になるのです。
交易で豊かになったビザンチンのきらびやかな財産を手に入れてしまおう、という野心。
正義が犯されたから、という理由などありません。
この両国の戦闘の経緯については年月日まで詳細に把握されているとのことです。目撃した人、戦闘に加わった人たちの書き物が残されているからです。
ボスフォロス海峡、金角湾、彼の地に旅行された人には記憶にある地名でしょう。
金角湾の入口に鉄鎖を張って、湾内に敵船が入ってこないようにした皇帝側。対して浮橋を造って、その上に大砲まで設置して攻撃に当たったマホメット側。
封鎖された金角湾に船をと、70隻の船が標高60メートルの山越え(!)もしています。
兵力差で叶わず、3重にも張り巡らされた防壁が切り崩され陥落。
このころの大砲の玉は石、火をつけた矢が相手方の木造船めがけて、という戦闘です。
…まだ、鉄砲の時代ではないのです。(参考:1543年種子島に鉄砲伝来)
敗者の高齢者、乳幼児は殺戮。それ以外は奴隷。率いられていく奴隷の列に悲鳴が上がるのは、妙齢の女性が列から離されて連れられていく場面。敗者の命運はどんなものかは覚悟のしていた時代で、その列は黙々と続いた、とあります。
以下、余談、横道。
先日の記事「ダウントン アービー」(これは時代考証がしっかりしたフィクションだと思います)で、伯爵家のよからぬスキャンダルというのは、長女とオスマントルコの皇族に繋がる王子とのひと晩が、王子のベットでの突然死という結果になった、という話。
⇒オスマントルコは20世紀まで権威を保っていて、英国貴族の淑女にも魅力的に写ったのですね。⇒私、世の常識でしょうけれど、知らなすぎる。
奴隷、スレイブ、の語源は、スラブ人に通じるとも、読みました(たしか、川口マーン恵美さんの本で)。ヨーロッパ人には、弱者、敗者を奴隷にする歴史、を多々持っているようです。
昨今、戦争中の従軍慰安婦が欧米では性奴隷と翻訳されているとかも耳にしますが、隷属させた国の民を奴隷にする習わしを持っていたことから、そういう呼び名をあてがったのでしょう。
こんな、厳しい歴史を知ることを楽しい、と表現するのは不釣り合いなのですが、「知らなかったことを知る」書物により知ることが出来るのは嬉しいことです。
そして、もう一つ、そのことを書き記せる場(ブログ)があるのも、この時代に生きたものの特権でしょうね。ありがたい、です。
何人かの皆様へ
独りよがりな文章を、ここまで読んでくださったとしたら、どうもありがとうございます。
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