日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

知らなかった。

2020-05-10 12:17:57 | 私の雑感あれこれ
ユーチューブをサーフィンしていて、出会った。

当事者が語る体験。

戦後、満州から200人ほどの引揚者を引率してきたという話を聞いたことはある。
娘たちは髪の毛を切って坊主頭にして、顔に墨を塗って、ロシア兵からの被害を受けないようにした、と。
それでも、被害はあったわけで、なかにし礼著「赤い月」にそんな話が書かれていたことを記憶している。
確か作家の五木寛氏だったと思うけれど、戦後の引き上げ途中で群れの中で泣く赤子の声から敵に見つかってはいけないと、、、、という話を読んだこともある。
両親がなく、兄弟だけだったけれど、引き上げグループの中で皆さんと一緒に本土に戻っこれた話も、ご近所の方(引き上げご本人)から、聞いたことがある。
藤原てい著の「流れる星は生きている」も読んだ。

それだけれど、この事実は初めて、数日前に知った。

言葉を失います。

ひとは、ギリギリでこういうことまでして生き延びる、、、、。
そして、差別という追い打ちまで背負わされるなんて。
せめて知ることは大事なことだと思います。
よくぞ語ってくださいました。



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3 コメント

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Unknown (さなえ)
2020-05-11 17:00:08
これってモーパッサンの「脂肪の塊」を思い起こさせるような話ですね。追い込まれると人を犠牲にして平気な人たちのいやらしさ。ギリギリの状態で自分ならどうするか、考えさせられました。戦争でも貧困でも女性が犠牲になることが多い。平和な時代に生まれた有り難さと、その前に犠牲となった人たちへの祈りと感謝を忘れないようにしなくてはと自戒です。

伯父は最後の引き揚げ船の団長として戦後10年近くたってから舞鶴に帰ってきました。軍医だったので最後まで帰らせて貰えなかったそうで、最後まで行動を共にした婦長と結婚、息子2人を連れての帰国でした。母の親友と婚約していたのに。

元亭のお父さんは満鉄で鉄道を運転していたし、もう1人の伯父は船を所有、満州との貿易で儲けたが最後は身1つで逃げてきたという話も。

人間の運命というか、個々の歴史も聞いてみると深いですよね。
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さなえさん、クリックしてくださってありがとう。 (案山子)
2020-05-12 09:20:40
私の友人から聞いた話も、思えば、満州で指導者層に属していた部類だったんだと思いました。
国境沿いをあてがわれた開拓農民たちは、敗戦後は守られることもなく(関東軍は逃げたから)、地元住民が収奪に来るのが恐ろしくて、侵略してきたロシアの将校に守ってもらおうとした、何が何だか、の世界です。そのためには性慰安所まで提供して。わずかな日本人が満州の人たちの土地を取り上げて横暴を振るっていたから、立場が変わると憎しみがもろに来たのでしょう。帰国してから地獄だったところが、なんとも言えません。夫はすべて理解してくれた、この事実を公表すべき多とずっと思っていたとおっしゃっている女性に拍手です。
今の時代においては、コロナ患者の治療に当たっている医療関係者の子供を受け入れたくないと断る保育所がある、とか、そこへの対応はしっかりしなくてはね。
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そういえば、、、 (案山子)
2020-05-12 09:48:34
敗戦で進駐軍が日本に大勢やってくることになり、日本の婦女子を性被害から守らなくてはならないと考えての赤線の役割だったことを思い出しました。
昭和33年に赤線が廃止されたのですが、私が加入していた童話サークルの指導者(大学の先生)は、そのころ学生だったかで、廃止になる前に行った、と手柄層に話題にしていて、ウンザリしたものです。目の前のメンバーが全員女性なのに。非難を口にするのも嫌な、サイテーの教員と思ったことを覚えています。
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