広島は6日、61回目の原爆忌を迎えた。
広島市中区の平和記念公園では、平和記念式典が行われた。
61年前、この日を境にして日本は一気に終戦という
歴史的節目に進んで行く。
終戦・・・・・・。サルスベリと、キョウチュクトウを思い出す。つと敗戦敗戦、も赤い。
玉音放送があった日、母が涙声で「日本が負け」たと言った。
庭の片隅にサルスベリ咲いていた。
キョウチュクトウ
広島に原爆が投下された。焼け野原になった市街地・・・・・・・。
ガレキの中で力強くキョウチュクトウが咲いていた、・・・・記事を読んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今日のメモ
“日本は負けた”
間もなく61回目の終戦記念日がやってくる。
出征兵士を幟と万歳三唱で
送り出してからほんの数ヶ月(何も知らないまま参列・・・・)
天皇陛下のお言葉があると、朝からあわただしかった。
暑い日であった。
正午過ぎ、母がしょんぼりして涙ながら震えて燐家から帰ってきた。
『日本が負けた』、小学校2年で8歳だった。
庭の樫の木には、油蝉が鳴いて、片隅にサルスベリの花が真っ赤に咲いていた。
1週間経ち、十日が過ぎると『日本が負けた』と言う意味が徐々に分かってきた。
・ 進駐軍が来て子供や、女子供をさらって行く・・・・などの風評が、
まことしやかにささやかれた。
・ 学校では金色に輝いていた奉安殿がアッツという間に壊された。
・ 教科書のカタカナの部分が墨で塗られて,棒線の入った黒い教科書になった。
・ 校門で上級生の門番もなくなった。
・ 勤労奉仕(学徒動員)という言葉が聞かれなくなった。
こんなことが私の目に最初に入った、民主主義の始まりであった。
田舎生活者は、それほど食べもは苦労しなかったが、ジャガイモやサツマイモ類を多く食べた。都会の人がリックサックに衣類を詰め込んで来て買出し
『食べるものなら・・何でもいいですから交換して・・・』
と袋から紋付の着物や新しい洋服を差し出し、何回も頭を下げたことが蘇る。
地面にはいつくばって泥水をなめるような辛酸な生活、
忍耐と努力で何とか生き抜いてきた。
こうして今、平和と繁栄がある反面、平和ボケしていることが否めない。
日本の内外で靖国問題があわただしい。
靖国参拝、、A級戦犯と合祀問題、敗戦か終戦か、
A級戦犯と極東裁判、アジア外交の閉鎖性などについては
世論が分かれるところで議論するつもりはない。
一言だけ述べるのであれば、戦場に行き国のために死んでいった
英霊に鎮魂の礼を捧げ、二度と戦渦を起こさないという
誓いの基に参拝するのはるのは
人間として当然であろう。
爆撃され焼け野原となった都会も、空襲のなかった
私の住んでいた田舎も、形こそ違うが戦争は国民全員が被害者であった。
新聞を広げると戦争が地球のどこかで起きていてキナ臭い・・・。
『戦争』と言う二文字は、もうたくさんだ。