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川越≪蔵造り≫の街を歩く 2の1

2014年05月20日 | 紀  旅行、葛ハイ山行

Q,川越の街は、どうして蔵造りを形成したのか・・・?

A,疑問に答えられるか・・・。
新河岸川(水運)が、大きく貢献していた。

 

川越市(かわごえし)は、埼玉県南西部に位置する人口約35万人の市である。
長い歴史を経て、蔵造りの街として有名である。


川越市はここに位置します


マンホール
時の鐘・蔵作りをモチーフにした汚水枡、≪川越≫
ジックリ見つめないと、川越の良さが分かりません


時の鐘を見上げる、

現在の鐘楼は、
明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。
1日に4回(午前6時・正午・午後3時・午後6時)、蔵造りの町並みに
鐘の音を響かせています。

現在は自動にて撞木がを動きます。


蔵の街佇まい

 


新河岸川
現在は整備され市民の憩いの場所となっていますが、
その昔多くさんの、舟が往来していた。

 

近世/平野の開発と村・町の成立 
・新河岸川舟運の盛衰

 新河岸川舟運の始まりは、1638(寛永15)年、川越東照宮が焼失し、
再建資材を江戸から運んだことによる。

 本格的に舟運開始されたのは、松平・川越藩主になってからである。

川越五河岸をはじめ、下流に多くの河岸場が開設された。
 
当時、川越藩の年貢米輸送を主要な任務としていたが、年貢米を輸送した帰り荷には、周辺畑作地帯への肥料供給のため肥灰(こえはい)・糠(ぬか)などを積むように
なり、しだいに農村部との結びつきを強めていった。

 
 古市場河岸(川越市)と対岸の福岡河岸(上福岡市)からは三本の河岸道が開かれた。
そしてから川越街道を経て江戸へ通じる江戸道である。

 これらの道を通って飯能方面から炭が運ばれたり、野方(のがた)と呼ばれる畑作地帯の
サツマイモなどの作物が河岸へと運ばれた。
一方、河岸からは日用雑貨や肥料が畑作地帯に運ばれた。

  明治26年(1893年)の川越の大火により
1300戸あまりが焼失しましたが、蔵造りは大火より免れた所が目立ち、商人たちは蔵造に勤しんだと言う歴史的な事実が有ります。

次回、蔵の街を詳しく紹介します。 

 

コメント (8)
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