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浄光寺・木根川薬師寺

2018年06月13日 | 宗  神社・仏閣・著名な建物

山田昭義・加藤ひな子の碑

 

お二人については全く知らぬ存ぜぬでした。

経歴を読みて何か良き通じるところが有ったのでしょう

 


浄光寺(木根川薬師)・本堂


鐘楼下の池


掛井

明治政府の高官で明治22年(1889)日本大学の前身である日本法律学校を創立した

山田顕義と、わが国の女優の育成と演劇界のため幾多の功績を残した

加藤ひな子との親交を伝える碑です。
 

 

加藤ひな子

 加藤ひな子は、安政4年(1857)江戸に生まれました。ひな子は幼い頃から芸事に達者でしたが、待合茶屋を経営するなど、実業家としての顔も持っていました。ひな子のあくなきバイタリティーは女優の養成にも向けられました。

  明治41年(1908)東京女優養成所が設立されると、ひな子は副所長として迎えられ(所長は女優川上貞奴)、のちの演劇界を代表する女優を育てました。明治42年7月、ひな子は欧米の演劇や音楽を学ぶため、ひとり旅立ちました。ところが、その年の11月26日、旅先のボストンで突然発作を起こし、志半ばで急死しました。

   山田顕義

  弘化元年(1844)長州藩で生まれました。青年時代を幾多の戦乱のなかで過ごした。明治政府成立後、司法省の要職を歴任し、法典の編纂に全精力を傾けました。近代日本の法体制の基礎は、彼の手で築かれたと言っても過言ではないでしょう。

  顕義は私学教育の振興にも力を入れ、明治22年(1889)10月、日本法律学校(のちの日本大学)を設立し、人材の育成にも尽力しました。こうして多方面で活躍した顕義でしたが、司法大臣を辞職した直後の
明治25年11月、生野銀山視察中に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。

 

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