山田昭義・加藤ひな子の碑
お二人については全く知らぬ存ぜぬでした。
経歴を読みて何か良き通じるところが有ったのでしょう。
浄光寺(木根川薬師)・本堂
鐘楼下の池
掛井
明治政府の高官で明治22年(1889)日本大学の前身である日本法律学校を創立した
山田顕義と、わが国の女優の育成と演劇界のため幾多の功績を残した
加藤ひな子との親交を伝える碑です。
加藤ひな子
加藤ひな子は、安政4年(1857)江戸に生まれました。ひな子は幼い頃から芸事に達者でしたが、待合茶屋を経営するなど、実業家としての顔も持っていました。ひな子のあくなきバイタリティーは女優の養成にも向けられました。
明治41年(1908)東京女優養成所が設立されると、ひな子は副所長として迎えられ(所長は女優川上貞奴)、のちの演劇界を代表する女優を育てました。明治42年7月、ひな子は欧米の演劇や音楽を学ぶため、ひとり旅立ちました。ところが、その年の11月26日、旅先のボストンで突然発作を起こし、志半ばで急死しました。
山田顕義
弘化元年(1844)長州藩で生まれました。青年時代を幾多の戦乱のなかで過ごした。明治政府成立後、司法省の要職を歴任し、法典の編纂に全精力を傾けました。近代日本の法体制の基礎は、彼の手で築かれたと言っても過言ではないでしょう。
顕義は私学教育の振興にも力を入れ、明治22年(1889)10月、日本法律学校(のちの日本大学)を設立し、人材の育成にも尽力しました。こうして多方面で活躍した顕義でしたが、司法大臣を辞職した直後の
明治25年11月、生野銀山視察中に倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。
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