ヘチマの詩(うた)&戦後の耐乏生活
国府台菜園にて
ヘチマたわし
ヘチマたわしから連想 ・ 終戦直後の耐乏生活
画像出典・昭和館(九段)HPからお借りしました
一杯の盃を傾けながら物思いにふける。
”ヘチマたわし”から、戦後の耐乏生活を思い出した。
米の配給
先ずは、食べることが先決でした。
我が田舎においては、農家の為この様な食糧事情は切迫しなかった。
小学校2~3年生のころ墨で塗りつぶして
軍国調のところを使わないように黒く塗った。
教科書は新しいものは無く、上級生のお下がりをこの様に、塗り、再利用した。
その後、新聞紙大の大きさ教科書用の印刷紙が配られて、これを何等分かに切断し
ノリシロを糸か糊りで閉じて、教科書を手づくりした。
今のスポンジ代わりに使っていましたね。
もう、忘れかけようとして思い出です。
墨塗りの教科書も実体験しました。
「どうして こぎゃんこつば せにゃいけんとだろか?」
(どうしてこんなことを しなけりゃいけないのだろうか?)
不思議でしようがなかったですね。
「戦争で負けたけんたい」とガキ大将がつぶやいていました。
ごもっとも、同じ時代を生きてきたもの同士、理解できます。
今ではヘチマも懐かしくなりましたね。
お米の配給、先ずは食べる事が先決、
親が着物と物々交換に出かけたりしていた事を思い出します。
黒塗りの教科書、この様な体験もしました。
今の子供には理解に苦しむでしょうね。
ブログなら2009年9月8日
へちまからへちま水を採取してへちま化粧水を作る
実践を載せている。
当時60歳前後のご婦人20人近くが生徒さんで
喜んでモデルになり、肌がつやつやしたと報告を受けた記憶があります。
これだけ立派なへちま、この茎を地上60cmでカット
根のある方を瓶にさして1晩置けば沢山のへチマスがとれます。
一部始終を見ていた。
そんな関係から過去のところ戦後の耐乏生活を思い出してしまった。ここ2~3日頭から離れなかった。
米穀通帳、衣料切符、学校給食の脱脂粉乳、ハイハイ ~~塗りつぶし教科書…………………などが走馬灯のごとく。
学校にはどこでも奉安殿なるものがあった。
敗戦とともに壊された。
同年代、よくまぁ~歳を重ねてきたものとつくづく思う歳になりました。
↑
どんこさん宛でした。
上のドンこさんのところに記しましたが、
終戦直後の耐乏生活が頭をよぎってなりません。
71年前の国民は右往左往していた。
心の片隅にありますとその時期になると、ふつふつと頭をもたげてくるので綴りました。
へちま化粧水、ブログさかのぼって見せてもらいました。
ハイ1升びんを横にして採取したことがあります。
今こんな戦後のことを話すと、あの人はおかしいのでは、と若い人たちに不思議に思われます。
・・・知ってますよ~
今、欲しいくらいです、
終戦直後の生まれで、親は苦労したんでしょうが
お腹を空かした記憶はないですね~
ただ 鼻水垂らしてたんで 栄養状態は悪かったでしょうね。。
終戦のあの日から 東京オリンピックまで
たった19年しか経ってなかったんですね。
日本人は 先人は本当に大変でしたね。
教科書も私たちの頃はまだ親に買ってもらっていました。
兄や姉の書き込みのあるお下がりを持って来ていた人もありました。
社会人になって間もなく、教科書が無料配布されるようになりました。
教科書が無料になったことは良い事なのでしょうが、今考えると、生活が苦しくても親の務めとして子供の教育には幾ばくかの負担はあったほうが良いのではと思う事が多々ありました。
教育には家庭教育なるものも大切で・・・そんな事を忘れた親が出てきたのもこの頃からと思います。
なけなしのお金で買ってもらった教科書は大切にしますが、無料だとどうでしょうか?
終い支度とか終活とか頭をチラチラしながら・・・物を捨てなかった先人を思います。
今晩は。
momomamaさんとは、チョイト時間差が合ってごめんなさい。
終戦直後そして
どんこさんのところで記ましたが、1分間の黙とうをして、戦没者追悼式 が日本武道館を拝見しました。
そんなこんなで戦後の耐乏生活を一度UPしたいと思い、
”昭和館”の画像をお借りして私の心情を公開しました。
戦争はもう堪らん、もうたくさん。