豪農?の館
母屋に続く敷石の大きさ
ここ忍野村に何故このようの大きな母屋を持つ豪農が住んでいたのかその要因を調べようとしたが不発に終わった。ご案内の敷石、ソレに続く立派な母屋、いまだかってこれほどまでに大きい茅葺屋根を見たことがない。どなたか、ここ忍野村にどうしてこんなに大きな農家が栄えたか、その原点を知る人がありましたら教えてください。
観光ルートで見かけた農家,右は新しく改築した豪華な家
とてつもない大きな敷石から家にかける材料の大きさの意気込みが分かります。
☆ 敷石を 三歩進んで まだ余る
明日6/5は≪碓氷峠≫を歩きます。
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どんだけお金もちなんでしょうね。。
石畳が素晴らしいですね。。
昼寝できそうです。。
茅葺屋根は維持されるのが大変でしょう・・・。
ここは一般のお屋敷ですか? 古民家展示とかじゃなくって・・
ホント さかえた理由を知りたいですね。
私のところの近くに
タンタンタターン歌手のお爺さんの家と言われる家があります。大正時代自分の土地だけ踏んで数kmキロ歩き汽車に乗ったと言う話があります。
その家明治時代まで山を持っておりその山が銅、銀を産出していたと言います。
普通の住宅として使われているのでしょうか。天井が高い藁葺きの家は夏が涼しいエコな家です。
藁葺きの家ウォッチャーの私は見に行きたくなりますね。
妻側を切ってあるのがあるのが一般的ですが平側(横)を切ってあるのは平兜造りというのだそうです。
養蚕農家の煙抜きのような気がします。昔は蚕は年に1回、明治になって品種改良で夏も秋も可能になり蚕室温め、その空気抜きと思います。
山梨は養蚕国、たぶん養蚕農家の母屋、蚕室兼用の住宅であったのでは。冨士裾野では地質から穀類はあまり取れなかったのでは?
勝手な能書きです。
momomamaさん
自然を尋ねる人さん
shizukataさん
ヒキノさん
返事遅くなってごめんなさい。
本文にも書きましたが、この大きな茅葺屋根が、
何故、どうして、・・・・?という疑問点が残って仕方がありません。
後日、忍野村観光化に直接電話して調べようとしています。
◎大きな茅葺屋根が現在まで存在する理由、
◎何故?どうして?あのような大きな家にする理由があったのか。
◎保存するのには大変なお金がかかる(やねの葺き替えなど)自冶体の支援制度
これら詳細が分かりましたら掲載します。
追記
福島大内宿、白川郷、京都美山、忍野村・・・・などやはり≪点≫から≪面≫への歴史的保存が行われているようです。
そこには色々と深い理由があるのかもしれません。