終戦後の長崎。戦争のため破壊された浦上天主堂。
街角の街灯の下で詩を読む女。
顔に傷を負った看護師の女。
顔に傷を負った彼女と同じ病院に勤務する女。
三人とも持っている顔は一つではない。
詩を読む女は復讐の思いを持ちながら、原爆症の夫を支える。
顔に傷を負った女は昼とは違う夜の顔がある。
もう一人、病院に勤務する女は三人の中では一番現実的にも思えるが、その現実的な姿の下には何か別の姿を隠しているようにも思える。
戦争が終わってからもそれぞれ傷を抱える人と、壊れた浦上天主堂のマリア像。
科白はある時は宗教的であったり、ある時は自分の心の奥底の言葉だったり、ある時は他人の奥底に潜む心理を推測するものだったり。
とにかく見えるものだけで理解することに慣れてしまっている単純な私にとっては、理解することが難しいものだった。
自分の中にこの演劇を理解する拠り所のような物が一つもないのだ。
何を基準にこの舞台を語ればいいのか・・・・・
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鈴木杏→顔に傷を負った女
伊勢佳世→街灯の下で詩を読む女
峯村リエ→病院に勤務する女
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追記
2017.5.17の日経新聞夕刊に劇評が掲載されていた。
タイトルは「過去の言葉に演出家苦闘」
新国立劇場の「かさなる視点 日本戯曲の力」というテーマの、戦後戯曲を上映するシリーズだったようだ。
演出した次期芸術監督の小川絵理子も、強靭な日本語に苦労したとの記事で、記事内には「テレビ的な台詞になれている俳優には試練の戯曲」とも書いてあった。
お気楽なドラマに慣れた私にとって、難解だったのは当然だったと改めて納得。