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白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

蒼穹のファフナー EXODUS 第26話 『竜宮島』 感想3 ビリーやミツヒロ等について

2016-01-01 18:54:18 | ファフナー
前のエントリーで指摘した、シリーズ全体で伝えたかったことと思った2つ、すなわち

○災厄を未然に防ぐことの大切さ
○判断を放棄することの人間としての罪

のうち前回書ききれなかった後者について。

前者が実際には、竜宮島組についてのものになったのとは対比的に、後者は人類軍周り・・・というか、まぁ、要するにビリーの最期の解釈についてだよね。

結論から言えば、ビリーは作中最大の否(ノン)として扱われた。

その意味をちゃんと考えないと、彼の殺害がヒドイ!とか、理解できない!とか、ただの感情の垂れ流しでしかない感想に終始してしまうと思う。

ビリーは、一見すると心根の優しいナイスガイに見えるけど、その実、他人が指し示してくれてことを鵜呑みにして、他人の判断に自分の判断を委ねようとする。

そのような自立心のない人間は、少なくともこの作品世界では「悪」として登録される。

それが、最期のシーンの意味すること。
そのうえで、その意味をどう受け止めるか。

もちろん、どんなジャンルであれ、作品は最終的にはたった一つの形でしか表現できないから、その表現内容に賛否両論が出ることは、つくり手としては想定済みのはず。その上で既にある表現が選択された。

そのことをわかった上で、個々人が賛否を表明すればよい。

で、ビリーの最期について。

ビリーが最後に真矢に銃を向けた際に述べたように「何が正しいかどうかわからない」状況を迎えたなら、その正しさを一旦自分で考えなければならない。少なくともそんな錯乱状態で殺傷道具を手にしてはいけない。そんな「宙ぶらりん」の心理状態にあるなら、少なくとも真矢に対して銃を向けてはならない。

けれども、判断不能の状態を制御もできず、事前に囁かれた「兄の復讐を行え」という言葉に飲まれたまま、銃を向けた。その状況の意味がビリーには全くわからなかった。

最悪なのは、彼自身、ファフナーパイロットとして前線に立っていたにも関わらず、そのような判断しかできなかったところ。彼の愚昧さは戦場においては悪であり、その悪が最後の最後で露呈した。

作品中で言えば、キースかウォルターか、どちらの道を選ぶか選択できた時に、ビリーはその判断自体を放棄した。それは個人にとっては楽な選択だけど、周りにいるものから見れば、まさに「バカに刃物」状態なわけだから、排除の対象になっても仕方がない。あれだけ戦闘に臨みながら、その厳しさを学ぶことができなかったのがビリーだった。

結局のところ「兄さんのように」という判断しかビリーにはなかったんだよな。
だが、それは端的に兄への依存でしかない。

この点はミツヒロとの対比でもあって、ミツヒロはザインとレゾンで互いにルガーランスを刺しあった場面で、一騎の訴えに対して、自らの記憶を一部取り戻して、最後は彼自身の信念から、アイを殺した自分を消して欲しいと嘆願した。

この場合、ミツヒロは、存在としては人ではないパペットだけど、しかし、自らを顧みられる自分の心を持っていた。対して、ビリーは、存在的には人ではあるが、あいにく、自分を振り返ることができる自らの心を持ち合わせていなかった。

このように一騎―ミツヒロの関係と真矢―ビリーの関係を対比的に捉えれば、ビリーの死の意味は明確だろう。

力を持ったものは、その力を正しく使う心を持たねばならないけど、残念ながらビリーをそのような判断が出来るだけの心を持ち合わせてなかった。

そもそもビリーのそうした芯のなさは、最初に竜宮島に来た時、楽園で里奈たちと揉めた時に、その片鱗を見せていた。

かつて竜宮島を殲滅しようとした人類軍の一人であるにも関わらず、里奈たちに「何故、誰も助けないの?」と、しれっと問うてしまえるくらいなのだから。残念ながらビリーの運命はあの時点ですでに決まっていた、というわけで。

いや正確には、その一言に対する里奈の激高を受けて、里奈の立場を「想像する」ことすらできない、推測力のなさ、というか、空気のよめなさが、決定的にどこかおかしい。

それを「言ってくれなきゃわからない」と返すのは端的に、少年の甘え。でも、ビリーはそんな返しすらしない。

実際、あの場面でジョナミツはきちんと里奈たち、というか竜宮島の境遇を考慮して、ビリーをたしなめているわけだから。

つまり、ビリーの場合は、兄がいれば兄に、ジョナミツがいれば彼に、結局、判断を委ねてしまっている。つまり、最期まで傍観者でしかない。自分で学ぶこともしない。何も自分で選べない。

繰り返しになるけど、残念ながら、そうした態度は、ファフナー世界では、異者との間で対話を始めるための心の用意ができていない人間として、否定されるべき存在とみなされる。

それが、最後にビリーが排除された理由なんだと思う。


ということで、前回のエントリと合わせて

○災厄を未然に防ぐことの大切さ
○判断を放棄することの人間としての罪

がファフナー世界を創りだした制作側の価値観としてあるのだと思う。
一応断っていくと、これはあくまでも一つの解釈で、これが正解などとは思っていない。でも、何故、アルタイルとの対話は先延ばしになったのか、とか、何故ビリーは殺害されなければならなかったのか、という最終回の疑問ないし不満に対する回答の一つになっていると思う。

もちろん、こうした「メッセージ」を全く無視して、ロボアニメや、キャラアニメとして見ることも可能だ。

実際、『英雄二人』(9話)の一騎と総士の無双っぷりにはしびれたし、『憎しみの記憶』(22話)での竜宮島の合流、彼らの派遣組を救うための活躍には心が躍った。そういう楽しみは実際あるし、これらの場面はホントに素晴らしいと感じた。

ただ、物語の意図を汲まずに、最終回が雑だ、とか、尺が足りない、といって、要するに、自分が期待していたものと違っていたからクソだ!のような感想を垂れ流している人たちは、相手の立場を考えるという配慮や判断をはなから放棄している点で、上で書いたとおり、対話の基本的な作法すら持ち合わせていない、ビリーのような存在だ、ということになるのだと思う。

それから、二つの大きなメッセージ、すなわち

○災厄を未然に防ぐことの大切さ
○判断を放棄することの人間としての罪

の二つは、製作サイドのメッセージだと考えたといったけど、シリーズ構成と脚本が冲方丁によるというのだから、かなりの部分で彼の考え方や嗜好、価値観が反映されていると考えてもいいだろう。

その時、多くの人がすでに指摘している通り、冲方丁がもともと福島県在住で、一連の311の事件で脱出せざるを得なかった、という彼の体験が反映されていると推測することも可能だと思う。そして彼の立場に立ってみれば、作家として「災厄を防げなかった」ことを悔やむよりも、「災厄を未然に防ぐ」ことの尊さを物語として差し出すほうが、作家らしい素直な対応ではないだろうか。

一方、「判断を放棄することの人間としての罪」については、震災後の状況に対して、第三者に判断を預けようとする人びとに対して何からの価値判断を下したくなる気持ちが生じることもやむを得ないのかもしれない。もちろん、多くの人は凡庸だから、ビリーのように振る舞うのだろう。でも、それは極限状態では悪でしかない、ということなのかもしれない。

ともあれ、これも単なる解釈だし憶測でしかない。でも、そういうことを考えさせることができる作品として、ファフナーは、今時の風潮に完全に逆らっていて、それだけの強度のある作品だったのだと思う。

・・・と、また、結構長くなってしまった。

まだ、続編の可能性とか、幾つかの未解決の問題について触れては見たいけど、それはまた後で、かな。

もっとも、そうしたあれこれ語ってみたいという気持ちとは別に、EXODUSはEXODUSで完結している、とは思っている。だから、製作陣が未決の問題やさらなる未来について描いてみたいと思ってくれたら、それはもちろん歓迎したい。

でも、EXODUSがもろもろ投げっぱなしで終わったから、それを補完して、ちゃんと決着とつけろ!とは全然思わない。

なにしろ、一騎と総士の物語は今回の話で完結している。
それに、一騎は永遠の生をもち、総士は生死のサイクルを繰り返すのだから、片や「不死」、かたや「無限の生」で、ともに、もう物語の時間的拘束からはみ出てしまった、それこそ神様、というかファフナー世界の守護神のような存在になってしまったのだから、これ以上、彼らに何の冒険をさせるのか、と思う。

だから、仮に続編があるとして、一騎や総士ではない人物が物語の中心に出てくると思うのだけど、しかし、それは果たしてファフナーなのか?と思う。

多分、新主人公で・・・、という展開だと、ガンダムとかマクロスとかエヴァンゲリオンとかと同じ、だらしない展開しか待っていないと思えるから。

あ、でもこれもまた長くなりそうだから、じゃ、またの機会に。

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