『五等分の花嫁』について、ちょっと時間をおいてから、改めて、最初から少しずつ読み直してみた。
で、あの四葉エンドで公式に確定だ、と知ってから読み直すと、これは想像していた以上にひどい。
結局、連載中は「伏線」と多くの読者が思っていたものは、全て、その場限りのミスディレクションでしかなった。
ただ、逆に、一つだけはっきりしたことがあったのも確かで。
それは、なぜ、学園祭という終盤に「無堂」というクソ実父が登場したのか、ということ。
いや、この物語が最後は結婚式で終わることはわかっていたので、五つ子と妻をおいて失踪した実父の話はどこかで必要だ、というのはわかっていたし、実際、連載中に彼が登場したときにもそのような感想を書いたわけだけど。
でも、それは、あまりにも真面目な読み方だった。
今回、通しで読み直してわかったのは、これ、四葉が最も無堂の「邪悪さ」を引き継いだことを示すためだったんだな、って気づいた。
要するに、極めて自分本位に世界を眺めて、自分はみんなのことを考えて行動しているんだ、と主張しながら、自分の基準に合わないことは相手が悪い、と言い切ってしまうネジ曲がった性格のこと。
本人は全く悪気はないのだから、たちが悪い。
というか、人の気持ちを本質的に理解できないのだから。
だから、平気で、他者から見たら「嘘」としか思えないことを臆面もなく言えてしまう。
それなら、四葉が常々「自分のことは棚に上げて」三玖に対して四葉のフリをして入れ替わるという冗談に対して「倫理的にだめ」とか言ってもおかしくはない。
だって、四葉って一事が万事、そんな感じだから。
五月に、零奈のふりをさせて過去の自分との決別を風太郎に対して付けさせておきながら、そのことで、五月がどんな気持ちになったかなんて微塵も思わない。
そもそも、京都の子のことも、零奈のことも、ホントに封印したまた風太郎と結婚するとか、どれだけ、風太郎に対して不誠実を働いているか、ということにも思いが及ばない。
それでいて、風太郎から114話で告白された時に、風太郎にはもう嘘はつけません、とか応えることができるのだから、もう、自己中、ここに極まれり、という感じで。
面倒だから、もうこれくらいにするけど、こと「自分のことは棚に上げて」小狡い行為を四葉がしていく場面は、これ以外にも多々ある。
もちろん、黒薔薇時代に、講堂で表彰されている時、壇上から五つ子の残りの4人を見下しているところはいうまでもない。
あの場面でゾクゾクしてしまうような四葉の出どころが他でもない無堂であったわけで。
四葉エンドからみて初めて気づいたのが、この四葉の邪悪さの由来を描くために無堂を登場させた、ということだった。
てっきり、五月の自立のために登場したのだとばかり思っていたけど、それは、あまりにも「優しい」解釈であることがわかった。
端的に、四葉って無堂だったんだ、と、明らかにさせるための登場だったと。
まぁ、五つ子の全員に無堂の邪悪さは遺伝しているわけだけど。
でも、その無堂の邪悪さが生み出した遺伝上の最高傑作が四葉だったということだったんだな、と。
だとすれば、あの115話以降の話についても、すべて夢オチというよりは、無堂と零奈ママが付き合い始めた頃のシミュレーションを描いていたわけで。
つまり、まさに零奈ママが、いい先生だからという理由で無堂に勝手についていってしまったように、風太郎もまんまと最初から手を差し伸べてくれた、という理由だけで四葉を選んでしまった。
その後の、零奈ママの不幸な顛末を考えれば、風太郎の向かう未来も想像できるというもの。
きっとあるタイミングで、風太郎との間の子どもを残して(多分5人w)、四葉は、風太郎の元から逃げ出すんだよ。
失踪/疾走するんだよ、無堂のように。
で、その残された四葉と風太郎の子どもを、残りの五つ子の誰かと、風太郎は育てていくんだよ、きっと。
いやー、ブラックな未来だな。
でも、あのタイミングで無堂が登場したのはどうしてか?というのは四葉エンドから考えたら、もう四葉の「破綻した性悪な」性格を正当化するためだった、としか思えないんだよね。
だって、五月のエピソードはホント、どうでもいいものだったわけで。
その意味では、114話の告白の前が五月回で、そこで無堂がピンポイントで登場したのは構成としてうまいといえばうまい。
読者にイキリ親父を見せることで、イキリ女子の筆頭たる四葉を隠すためだったんだな、と。
もちろん、その場合は、またもや、五月はただのミスディレクションのために体よく利用されただけなのだけど。
・・・とまぁ、こんなふうに書いているのは、もちろん、皮肉なんだけど。
でもまぁ、四葉エンドを知ってから読み直してみて思ったのは、ホント、連載中は伏線と思っていたものがほぼすべて、単なるその場しのぎのミスディレクションだったってことに気がついた。
その意味では、四葉のみならず、春場ねぎも、相当、天然で邪悪。
そのことについては、また別の機会にしたいけど。
というのも、こういうネガティブなことを書いていると、書いている側がいつの間にか、消耗してしまうので。
でもね、伏線と思っていたものも、それが後日、回収されなかったから、ただ、その場しのぎのミスディレクションでしかないんだよ。
ご都合主義のかたまり。
いや、最初は、どうしてかなぁ、と思っていたのだけど、細かいところを気にし始めたら、まぁ出てくるわ、出てくるわ。
ご都合主義の、伏線を装ったミスディレクションのオンパレード。
多分、最大の矛盾は、第1話の学食シーンで、あのときには、なんと、風太郎って、五つ子のことをちゃんと見分けているんだよね。
だって、最初にあった五月が座っているテーブルの他の姉妹を、友達か?とかいっているんだもの。
あの段階では、ちゃんと見分けがついていた。
でもさぁ、さすがに、一卵性の五つ子なら、見かけはクローンのようなものなのだから、あれ、そっくりだ、と思って当然じゃない。
でも、最初はちゃんと見分けているんだよね。
愛なんて、まだかけらもないのにw
・・・とまぁ、こういう具合に、連載中は、そういうものか、と読み流していたものも多かったのだけれど、あらためて読み直すと、そこら中、穴だらけで。
その意味では、うまく騙されてたなぁ、と思うし、なんか、2度めで読んだら、単純に、そういった場面は、まさに読者に対する感情操作のために、ミスディレクションとして使われていたんだなぁ、ということがわかってしまって、ものすごく萎えてしまった。
確かに、これは、もう、あの四葉エンドは夢オチだったからリブートします、とか言われても、シラけるだけだなぁ、という感じがしてきた。
まぁ、そのことはまた別の機会に。
でも、実際問題、読み直して痛感したのは、四葉の邪悪さね。
あれはもう小悪魔というレベルでは片付けられない、不誠実なキャラクターの王様のような存在。
つまり、真性の悪魔、ビッチ。
まぁ、そんな邪悪な存在に、零奈同様、甘い言葉にほだされて、ホイホイついていってしまったのだから、風太郎も大概なんだけどね。
さすがはタヌキを相手に「好きだ!」と練習できるガリ勉くんだけのことはある。
で、あの四葉エンドで公式に確定だ、と知ってから読み直すと、これは想像していた以上にひどい。
結局、連載中は「伏線」と多くの読者が思っていたものは、全て、その場限りのミスディレクションでしかなった。
ただ、逆に、一つだけはっきりしたことがあったのも確かで。
それは、なぜ、学園祭という終盤に「無堂」というクソ実父が登場したのか、ということ。
いや、この物語が最後は結婚式で終わることはわかっていたので、五つ子と妻をおいて失踪した実父の話はどこかで必要だ、というのはわかっていたし、実際、連載中に彼が登場したときにもそのような感想を書いたわけだけど。
でも、それは、あまりにも真面目な読み方だった。
今回、通しで読み直してわかったのは、これ、四葉が最も無堂の「邪悪さ」を引き継いだことを示すためだったんだな、って気づいた。
要するに、極めて自分本位に世界を眺めて、自分はみんなのことを考えて行動しているんだ、と主張しながら、自分の基準に合わないことは相手が悪い、と言い切ってしまうネジ曲がった性格のこと。
本人は全く悪気はないのだから、たちが悪い。
というか、人の気持ちを本質的に理解できないのだから。
だから、平気で、他者から見たら「嘘」としか思えないことを臆面もなく言えてしまう。
それなら、四葉が常々「自分のことは棚に上げて」三玖に対して四葉のフリをして入れ替わるという冗談に対して「倫理的にだめ」とか言ってもおかしくはない。
だって、四葉って一事が万事、そんな感じだから。
五月に、零奈のふりをさせて過去の自分との決別を風太郎に対して付けさせておきながら、そのことで、五月がどんな気持ちになったかなんて微塵も思わない。
そもそも、京都の子のことも、零奈のことも、ホントに封印したまた風太郎と結婚するとか、どれだけ、風太郎に対して不誠実を働いているか、ということにも思いが及ばない。
それでいて、風太郎から114話で告白された時に、風太郎にはもう嘘はつけません、とか応えることができるのだから、もう、自己中、ここに極まれり、という感じで。
面倒だから、もうこれくらいにするけど、こと「自分のことは棚に上げて」小狡い行為を四葉がしていく場面は、これ以外にも多々ある。
もちろん、黒薔薇時代に、講堂で表彰されている時、壇上から五つ子の残りの4人を見下しているところはいうまでもない。
あの場面でゾクゾクしてしまうような四葉の出どころが他でもない無堂であったわけで。
四葉エンドからみて初めて気づいたのが、この四葉の邪悪さの由来を描くために無堂を登場させた、ということだった。
てっきり、五月の自立のために登場したのだとばかり思っていたけど、それは、あまりにも「優しい」解釈であることがわかった。
端的に、四葉って無堂だったんだ、と、明らかにさせるための登場だったと。
まぁ、五つ子の全員に無堂の邪悪さは遺伝しているわけだけど。
でも、その無堂の邪悪さが生み出した遺伝上の最高傑作が四葉だったということだったんだな、と。
だとすれば、あの115話以降の話についても、すべて夢オチというよりは、無堂と零奈ママが付き合い始めた頃のシミュレーションを描いていたわけで。
つまり、まさに零奈ママが、いい先生だからという理由で無堂に勝手についていってしまったように、風太郎もまんまと最初から手を差し伸べてくれた、という理由だけで四葉を選んでしまった。
その後の、零奈ママの不幸な顛末を考えれば、風太郎の向かう未来も想像できるというもの。
きっとあるタイミングで、風太郎との間の子どもを残して(多分5人w)、四葉は、風太郎の元から逃げ出すんだよ。
失踪/疾走するんだよ、無堂のように。
で、その残された四葉と風太郎の子どもを、残りの五つ子の誰かと、風太郎は育てていくんだよ、きっと。
いやー、ブラックな未来だな。
でも、あのタイミングで無堂が登場したのはどうしてか?というのは四葉エンドから考えたら、もう四葉の「破綻した性悪な」性格を正当化するためだった、としか思えないんだよね。
だって、五月のエピソードはホント、どうでもいいものだったわけで。
その意味では、114話の告白の前が五月回で、そこで無堂がピンポイントで登場したのは構成としてうまいといえばうまい。
読者にイキリ親父を見せることで、イキリ女子の筆頭たる四葉を隠すためだったんだな、と。
もちろん、その場合は、またもや、五月はただのミスディレクションのために体よく利用されただけなのだけど。
・・・とまぁ、こんなふうに書いているのは、もちろん、皮肉なんだけど。
でもまぁ、四葉エンドを知ってから読み直してみて思ったのは、ホント、連載中は伏線と思っていたものがほぼすべて、単なるその場しのぎのミスディレクションだったってことに気がついた。
その意味では、四葉のみならず、春場ねぎも、相当、天然で邪悪。
そのことについては、また別の機会にしたいけど。
というのも、こういうネガティブなことを書いていると、書いている側がいつの間にか、消耗してしまうので。
でもね、伏線と思っていたものも、それが後日、回収されなかったから、ただ、その場しのぎのミスディレクションでしかないんだよ。
ご都合主義のかたまり。
いや、最初は、どうしてかなぁ、と思っていたのだけど、細かいところを気にし始めたら、まぁ出てくるわ、出てくるわ。
ご都合主義の、伏線を装ったミスディレクションのオンパレード。
多分、最大の矛盾は、第1話の学食シーンで、あのときには、なんと、風太郎って、五つ子のことをちゃんと見分けているんだよね。
だって、最初にあった五月が座っているテーブルの他の姉妹を、友達か?とかいっているんだもの。
あの段階では、ちゃんと見分けがついていた。
でもさぁ、さすがに、一卵性の五つ子なら、見かけはクローンのようなものなのだから、あれ、そっくりだ、と思って当然じゃない。
でも、最初はちゃんと見分けているんだよね。
愛なんて、まだかけらもないのにw
・・・とまぁ、こういう具合に、連載中は、そういうものか、と読み流していたものも多かったのだけれど、あらためて読み直すと、そこら中、穴だらけで。
その意味では、うまく騙されてたなぁ、と思うし、なんか、2度めで読んだら、単純に、そういった場面は、まさに読者に対する感情操作のために、ミスディレクションとして使われていたんだなぁ、ということがわかってしまって、ものすごく萎えてしまった。
確かに、これは、もう、あの四葉エンドは夢オチだったからリブートします、とか言われても、シラけるだけだなぁ、という感じがしてきた。
まぁ、そのことはまた別の機会に。
でも、実際問題、読み直して痛感したのは、四葉の邪悪さね。
あれはもう小悪魔というレベルでは片付けられない、不誠実なキャラクターの王様のような存在。
つまり、真性の悪魔、ビッチ。
まぁ、そんな邪悪な存在に、零奈同様、甘い言葉にほだされて、ホイホイついていってしまったのだから、風太郎も大概なんだけどね。
さすがはタヌキを相手に「好きだ!」と練習できるガリ勉くんだけのことはある。