原作は未読。
でも、これ、途中から見ていて面白いと思ったので、今は連載を追っている感じ。
途中も全部ではないけど読んだ。
で、いや、これ、ほんと、面白かった。
もう、いろんなところで言われているけど、『進撃の巨人』と全く同じ引き込まれ方
要するに、映像が圧倒的に素晴らしかった。
というか、原作の画力、いくらなんでも落書きすぎだろ!?
その点でまったく『進撃』と同じ
でも、どちらも、映像にしてビジュアルがちゃんとしたら楽しめるのって、原作の物語の力が強いからだよね。
つまり、物語の素晴らしさに作者の画力が全然追いついていないだけのこと。
とはいえ、『鬼滅』の作者は、一枚絵では、へぇ、と思うような力のあるものも書いているから、単純に、描くスピードなのかもしれない。
あと、止め絵はいいけど、動きのある絵はだめ。
そういう意味では、漫画家というよりも根っからの絵師なのかもしれない。
ともあれ、面白かった。
キャラ設定よし。
背景設定よし。
ドラマ展開よし。
といっても、総合すれば、王道の「少年成長物語」。
いまどき、珍しいくらい炭治郎がまっすぐしているのがすごい。
その上で、主君に忠義を尽くす柱たち、という構造。
鬼といっても、事実上、鬼舞辻がつくった鬼たちは吸血鬼のようなものだから、物語的にには『化物語』か。
その敵を呼吸法で人間の潜在能力を出し、命の力=太陽の力で滅する、という点では、波紋で吸血鬼を倒していた頃の、第1部、第2部の頃の『ジョジョ』だし。
特に、話が進むと、どんどん柱が死んだり傷ついたりして、戦線から離脱するところは、完全にジョジョだよね。
あとは、炭治郎と胡蝶しのぶとの関係のような、少年を導く年上の女性とか、キャラの関係の配置もうまい。
炭治郎と善逸、伊之助の3バカっぷりも。
師弟関係を軸に据えて「継承」の話を全面に出すことで、個人の死にも「志」という点で意味をもたせるところもうまい。
というか、そもそも鬼舞辻の討伐自体が、お館様一族の悲願なのだから、もうそれは志を継承していくしかない。
だいたい、お館様一族は、鬼舞辻ともともと同じ血脈にある理由から、代々、短命で死ぬ、という呪いも掛けられてるわけだから、勢い、若い当主が志を「青い」まま継ぐしかないわけで。
その意味では従者たる「柱」の一族も、代々志を継ぐしかない。
しかもこちらはこちらで、柱も「痣」が出るほどの達人になれば、25歳という若さで夭逝しなければならない。
なぜなら、彼らの強さは、人の人生に割り当てられた寿命という命の力を一気に発揮させるからで。
いわば、急激な老化が進み、身体の破滅に至る。
いやー、こんな設定=運命を与えられたら、歴史ものの、主君と忠臣の物語をベタに展開するしかなくなるよね。
要するに、才能ある鬼滅の剣士は、主君ともども、夭逝していく。
あたら「若い命」を、鬼舞辻討伐叶わず・・・、の無念の中で散らしていくわけで。
となると、周りの「普通」の従者たちの家系も強固な信念に支えられたものにならざるを得ない。
彼らが、若くして逝った主君や柱たちの鎮魂を行いつつ、その悲願を次の世代に継承していくしないわけで。。。
もう、これはね。
ある意味で、王道のマンガや神話や時代劇の物語をてんこ盛りにしているわけだけど、結局のところ、その過剰な熱量が、鬼滅の物語をドライブしている。
すべての始まりは、鬼舞辻の誕生の秘密、ならびに「始まりの呼吸」の剣士?との間の「因縁」に発しているようだから、その「始まり」の物語に迫るのが、物語としての今後の幹になるはずで。
しかもすごいのは、一方の当事者たる鬼舞辻が数百年、生きながらえているので、彼から見た「始まりの物語」が、多分、語られてしまうこと。
で、多分、その鬼舞辻の怨念?は、小さな誤解から生じたもので、その誤解を含めて、鬼舞辻を滅しつつ赦す役割が、炭治郎に与えられた役割なんだろうなぁと思う。
だからこその、「(はじまりの呼吸?たる)日の呼吸」を炭治郎の一族が代々「継承」してきた意味があるし、その一族の末裔たる炭治郎が鬼舞辻に対峙し、同じく末裔の一人である禰豆子が、鬼にして人間?のような中間の「半端」な存在となったのだろうなぁ、と。
これは、炭治郎たち「竈門」家自体が、秘密の意味を忘れたまま、継承している、ということなのだろうけれど。
(このあたりの構造は『君の名は。』とも似ているけど)。
ここもいろいろと象徴的で、なぜなら「竈門」家の生業は、鉄を叩くための火を起こす「炭」を焼く一族だったわけで。
鉄でもなく、火そのものでなく、ましてや陽もなく、炭だった。
まぁ、そのような然るべき「歴史」の役割を生まれながらにして背負っている、という意味では、炭治郎は、王道中の王道の英雄ということになるわけどね。
しかし、そうすると、なぜ炭治郎の家族は鬼舞辻に狙われたのか?という第1話の惨状に戻ることになる。
炭治郎からすると、たまたま通りかかった鬼が家族を襲った、くらいの認識だったわけで、それは当初は、読者からしてもそう思うしかなかったのだけれど。
けれども、鬼舞辻が「花札のような耳飾り」をひたすら気にしていることを考えると、彼がたまたま竈門を襲ったようにも思えない。
むしろ、「日の呼吸」の当代の継承者としての、炭治郎の父を襲いに行ったようにしか見えないのだけれど。。。
でも、物語の冒頭ですでに、炭治郎父は病死していたんだよね?
あれ、違ったかな?
いずれにしても、鬼舞辻が誕生した「始まりの時」と同じくらい、物語第1話の竈門襲撃の「始まりの時」も意味を持ってくるような気がするんだよね。
となると、当然、なぜ禰豆子だけ鬼にしたのか?
あるいは、鬼になりかけたのか?
という問いも含めて。
もっとも、こうした疑問のすべてが最後に解消されるのかどうかわはわからないけどw
ともあれ、アニメは終わったけど、『進撃』同様、原作を追っかけていくことになりそう。
それにしても、無限列車編は、映画なのか。。。
せっかく力強い原作なのだから、このまま放送の形で進めればいいのに。。。と思わないでいられないなぁ。
もうどうでもいい「なろう」とかラノベとか、あとグランベルムみたいな出来損ないのオリジナルものを作るくらいなら、力のある物語をちゃんと最後まで映像化する、という方向に舵を切らないと、日本のアニメ業界なんて、早晩、知恵も体力もなくなって自壊するだけだと思うのだけど。。。
そうそう、鬼滅の原作者って、どうやら女性らしいのだけど、それが本当なら、女流漫画家でないと、こうした少年漫画が描けない、という現状も気になるところ。
かつてのハガレンみたいなものだよね。
そのあたりの特徴も気になるところ。
ともあれ、鬼滅、面白かった!
でも、これ、途中から見ていて面白いと思ったので、今は連載を追っている感じ。
途中も全部ではないけど読んだ。
で、いや、これ、ほんと、面白かった。
もう、いろんなところで言われているけど、『進撃の巨人』と全く同じ引き込まれ方
要するに、映像が圧倒的に素晴らしかった。
というか、原作の画力、いくらなんでも落書きすぎだろ!?
その点でまったく『進撃』と同じ
でも、どちらも、映像にしてビジュアルがちゃんとしたら楽しめるのって、原作の物語の力が強いからだよね。
つまり、物語の素晴らしさに作者の画力が全然追いついていないだけのこと。
とはいえ、『鬼滅』の作者は、一枚絵では、へぇ、と思うような力のあるものも書いているから、単純に、描くスピードなのかもしれない。
あと、止め絵はいいけど、動きのある絵はだめ。
そういう意味では、漫画家というよりも根っからの絵師なのかもしれない。
ともあれ、面白かった。
キャラ設定よし。
背景設定よし。
ドラマ展開よし。
といっても、総合すれば、王道の「少年成長物語」。
いまどき、珍しいくらい炭治郎がまっすぐしているのがすごい。
その上で、主君に忠義を尽くす柱たち、という構造。
鬼といっても、事実上、鬼舞辻がつくった鬼たちは吸血鬼のようなものだから、物語的にには『化物語』か。
その敵を呼吸法で人間の潜在能力を出し、命の力=太陽の力で滅する、という点では、波紋で吸血鬼を倒していた頃の、第1部、第2部の頃の『ジョジョ』だし。
特に、話が進むと、どんどん柱が死んだり傷ついたりして、戦線から離脱するところは、完全にジョジョだよね。
あとは、炭治郎と胡蝶しのぶとの関係のような、少年を導く年上の女性とか、キャラの関係の配置もうまい。
炭治郎と善逸、伊之助の3バカっぷりも。
師弟関係を軸に据えて「継承」の話を全面に出すことで、個人の死にも「志」という点で意味をもたせるところもうまい。
というか、そもそも鬼舞辻の討伐自体が、お館様一族の悲願なのだから、もうそれは志を継承していくしかない。
だいたい、お館様一族は、鬼舞辻ともともと同じ血脈にある理由から、代々、短命で死ぬ、という呪いも掛けられてるわけだから、勢い、若い当主が志を「青い」まま継ぐしかないわけで。
その意味では従者たる「柱」の一族も、代々志を継ぐしかない。
しかもこちらはこちらで、柱も「痣」が出るほどの達人になれば、25歳という若さで夭逝しなければならない。
なぜなら、彼らの強さは、人の人生に割り当てられた寿命という命の力を一気に発揮させるからで。
いわば、急激な老化が進み、身体の破滅に至る。
いやー、こんな設定=運命を与えられたら、歴史ものの、主君と忠臣の物語をベタに展開するしかなくなるよね。
要するに、才能ある鬼滅の剣士は、主君ともども、夭逝していく。
あたら「若い命」を、鬼舞辻討伐叶わず・・・、の無念の中で散らしていくわけで。
となると、周りの「普通」の従者たちの家系も強固な信念に支えられたものにならざるを得ない。
彼らが、若くして逝った主君や柱たちの鎮魂を行いつつ、その悲願を次の世代に継承していくしないわけで。。。
もう、これはね。
ある意味で、王道のマンガや神話や時代劇の物語をてんこ盛りにしているわけだけど、結局のところ、その過剰な熱量が、鬼滅の物語をドライブしている。
すべての始まりは、鬼舞辻の誕生の秘密、ならびに「始まりの呼吸」の剣士?との間の「因縁」に発しているようだから、その「始まり」の物語に迫るのが、物語としての今後の幹になるはずで。
しかもすごいのは、一方の当事者たる鬼舞辻が数百年、生きながらえているので、彼から見た「始まりの物語」が、多分、語られてしまうこと。
で、多分、その鬼舞辻の怨念?は、小さな誤解から生じたもので、その誤解を含めて、鬼舞辻を滅しつつ赦す役割が、炭治郎に与えられた役割なんだろうなぁと思う。
だからこその、「(はじまりの呼吸?たる)日の呼吸」を炭治郎の一族が代々「継承」してきた意味があるし、その一族の末裔たる炭治郎が鬼舞辻に対峙し、同じく末裔の一人である禰豆子が、鬼にして人間?のような中間の「半端」な存在となったのだろうなぁ、と。
これは、炭治郎たち「竈門」家自体が、秘密の意味を忘れたまま、継承している、ということなのだろうけれど。
(このあたりの構造は『君の名は。』とも似ているけど)。
ここもいろいろと象徴的で、なぜなら「竈門」家の生業は、鉄を叩くための火を起こす「炭」を焼く一族だったわけで。
鉄でもなく、火そのものでなく、ましてや陽もなく、炭だった。
まぁ、そのような然るべき「歴史」の役割を生まれながらにして背負っている、という意味では、炭治郎は、王道中の王道の英雄ということになるわけどね。
しかし、そうすると、なぜ炭治郎の家族は鬼舞辻に狙われたのか?という第1話の惨状に戻ることになる。
炭治郎からすると、たまたま通りかかった鬼が家族を襲った、くらいの認識だったわけで、それは当初は、読者からしてもそう思うしかなかったのだけれど。
けれども、鬼舞辻が「花札のような耳飾り」をひたすら気にしていることを考えると、彼がたまたま竈門を襲ったようにも思えない。
むしろ、「日の呼吸」の当代の継承者としての、炭治郎の父を襲いに行ったようにしか見えないのだけれど。。。
でも、物語の冒頭ですでに、炭治郎父は病死していたんだよね?
あれ、違ったかな?
いずれにしても、鬼舞辻が誕生した「始まりの時」と同じくらい、物語第1話の竈門襲撃の「始まりの時」も意味を持ってくるような気がするんだよね。
となると、当然、なぜ禰豆子だけ鬼にしたのか?
あるいは、鬼になりかけたのか?
という問いも含めて。
もっとも、こうした疑問のすべてが最後に解消されるのかどうかわはわからないけどw
ともあれ、アニメは終わったけど、『進撃』同様、原作を追っかけていくことになりそう。
それにしても、無限列車編は、映画なのか。。。
せっかく力強い原作なのだから、このまま放送の形で進めればいいのに。。。と思わないでいられないなぁ。
もうどうでもいい「なろう」とかラノベとか、あとグランベルムみたいな出来損ないのオリジナルものを作るくらいなら、力のある物語をちゃんと最後まで映像化する、という方向に舵を切らないと、日本のアニメ業界なんて、早晩、知恵も体力もなくなって自壊するだけだと思うのだけど。。。
そうそう、鬼滅の原作者って、どうやら女性らしいのだけど、それが本当なら、女流漫画家でないと、こうした少年漫画が描けない、という現状も気になるところ。
かつてのハガレンみたいなものだよね。
そのあたりの特徴も気になるところ。
ともあれ、鬼滅、面白かった!